法話:自慢と我慢

自慢と我慢
一心寺 釋 和音(前田和丸)

自我という文字に、慢を付けると、自慢と我慢になる。我慢には、忍耐するという意味があるので、我慢を自慢するということになる。面白い並びになる。自慢話を我慢して聞くこともある。我慢強いのは美徳でもある。

正信偈には、邪見僑慢悪衆生とあって、邪見、よこしまな見解と驕慢、よこしまで、おごりあなどる者、それを悪人と言うのである。

では、我慢強いのも悪人の中に入るのだろうか。忍耐とか辛抱がなぜ悪いのか。考えてみると、慢心が潜んでいるからだろう。慢はおこたる、あなどる、たかぶるという意味がある。やせ我慢、堪忍袋の緒が切れるということがある。刃傷松の廊下の如く、耐え忍んだ挙句、暴発するのだ。それが慢心なのだ。

自と我をくらべてみても、自より我の方が問題だ。「戈」が含まれているからだ。仏教では、迷いの根本を「我執」と表わしている。「我執」「我慢」が無明の元である。

そうしてみると、自慢より我慢の方が、悪性が強いということになる。辛抱強い、忍耐強いということは、悪性が強いという訳だ。

悪性さらにやめがたし
 こころは蛇蝎のごとくなり
 修善も雑毒なるゆえに
 虚仮の行とぞなづけたる
(親鸞聖人悲歎述懐和讃)

忍耐強い性分には蛇蝎のこころが潜んでいると言われるのである。しかも、善行を修することも毒となるとある。薬とはならないという。副作用が働くのだろうか。

いやはや、これは、自分のことにほかならない。自慢と我慢で生きている、無尺棒弁解。

和讃には次に

無慚無愧のこの身にて
 まことのこころはなけれども
 弥陀の回向の御名なれば
 功徳は十方にみちたまう
    (同上)
と、南無阿弥陀佛の回向を示されてある。
ただ念佛して弥陀にたすけられ参らすべしと。