法話:生死一如 −不安を楽しむススメ−

生死一如 −不安を楽しむススメ−
安順寺 釋 一実(佐々木一実)

僕は朝起きるのが大の苦手だ。
寺の住職なんかしているので、暗いうちから起床して本堂でお経を読み、庭掃除などをしているように思われがちだが、僕の朝は全く違う。
毎日妻に何度も起こしてもらい、やっと起きている。
起きなければ、まだ寝たい。ふたつの気持ちがせめぎ合う、毎朝の儀式のように。
本当は起きたくないのに……と思いながら、最近少し重たくなってきた体を無理矢理起こしている。

なぜここまでして毎日起きるのか。それは不安だからだ。
仕事をせずに寝ていたら門徒さんの信用を失ってしまう。
信用を失えば住職の不信任案が出されて、職を失うことにもなりかねない。
職を失えば金が稼げなくなり、金が稼げなければご飯が食べられなくなってしまう。
ご飯にありつけなければ死んでしまうかもしれない。
つまるところ、死ぬかもしれないという「不安」が、僕を毎日起こしてくれている。

僕らにとって「死」は、嫌なことの象徴だ。
愛する人や親しい人を奪い取り、悲しみの底にたたき落とす。
僕らは死という言葉を聞いただけで心が凍り付いてしまう。
空虚感や喪失感にさいなまれ、生きる希望さえなくしてしまいそうになる。
死は人生にとって最大の敵であり、悲しみという爪あとだけを残していく邪魔者だと僕らは思っている。

しかし、僕らがもし死なずにすむことになったらどうだろう。
僕はきっと安眠を貪り、毎日起きなくなるに違いない。
門徒さんに信用されなくなり、職を失い、金が稼げなくてご飯を食べることが出来なくなっても一向に構わないのだ。
死なないのだから。
不死の世界は、不安が無くなり安心だけが残る楽園のように見える。
だが死なずにすむという世界は、人生に何も意欲が沸いてこない、時間だけがいたずらに過ぎる地獄なのだろう。あたかもゴールのないマラソンを走れといわれているみたいに……。
僕はついさっき「死は生の最大の敵」だと言ったばかりだが、「死が僕らを生かしてくれている」とも言えるわけだ。

生と死。
僕らはこのふたつを正反対で、矛盾する事柄だと思っている。
しかし、生きることは常に、死ぬことと隣り合わせだ。
人は生まれてきたから、死ななければならない。
生と死は無関係ではなく、常に関係しながら存在している。
死ぬのは怖いことかもしれない。
だが、死があるからこそ、僕らは人生という限りある時間を楽しみ、生きられるのだ。
どうせ生と死を切り離すことができないなら……と、開き直った気分で「不安を楽しむ」のもいいんじゃないだろうか。

僕らは死を抱えて生まれ、死を抱えながら生きている。
死ぬために生きる。そして生きるために死ぬのだ。
仏教は「生と死は一つの如し(生死一如)」という言葉で、このことを僕らに教えようとしてくれているのだと思う。

夜も更けてきた。
そろそろベッドに入ることにしよう。
明日も死への不安が寝起きの悪い僕を起こしてくれることを信じて。