○アジア地域との出逢いと活動  先生は、昭和3年のお生まれで、太平洋戦争中に、青年期を過ごされ、自分自身が、戦争でいつ死ぬかわからない日々を送り、祖国のために死ぬのか、何のために死んでいくのかなど、仲間たちと話をして過ごしていた。敗戦直後の頃に医学部を卒業され、外科医となり医師として生活を始められるなかで、先輩の医師が軍医としての任務を終えて、戦地より引き揚げてこられ、日本が、米国と共にアジアで侵した出来事は、敗戦直後の混乱した日本もさることながら、それ以上に悲惨な状況であったことを聞かさて、それを聞かれて少しでも自分たちにできることはないのか、日本人の責任として、アジアの平和に貢献ができるように、平和の人としてアジアに行って、アジアの人々の健康を守る手助けをしたいと考えて過ごされた。  残念ながらアジアに出向く機会は、すぐには作れなかったものの、その思いも持ちながら、日本での外科的な結核治療にあたり、その後、米国への留学をされ、結核の治療や肺ガンの外科的治療に取り組んでおられたとのことであった。その時期でも、アジアの国の支援に思いを馳せながら、古切手を回収して結核の予防ワクチンであるBCGの購入資金を集めるようなボランティア活動をされるなど取り組みをすすめていた。1960年には、NGOで日本キリスト教医療協力隊を結成されて、その一員として、はじめてアジアの地に行くことになったのは、1976(昭和51)年で、ネパールのタンセンという町に行き、医療活動に参加された。先生は、地域の人々が受け入れてくれるのか、自分の医療技術が通用するのか不安もあり、とりあえず3ヶ月活動してみることから始めることで訪問した。先生が、医療活動を始めた地域は、非常に貧しい地域であったが、アジアの地域では特別のことではなくこういう地域が数多くあるということを聞かされた。その地域にあった病院は、外国の支援で設立されたものがあって、そこには、外国人医師が4人応援にきていたが、その医師たちは、みんな内科医であったこともあり、整形外科医の先生が行くことは大変歓迎され、受け入れてもらうことができた。  現地で治療をした多くの患者さんは、栄養状態が悪いために、かなりの貧血の状態の人が多く、最初は、この健康状態から手術はできないという判断しようとしたところ、他の医師よりこの状況で手術できないと判断すると、ここで生活している人は誰も手術できなくなるといわれ、大丈夫だから手術を実施するように言われ、実施したとのことであった。実際に手術を実施すると、多くの患者さんは、手術後も良好に経過することがわかった。これは、栄養状態が悪い一方で、地形的に高地での生活をしていることで、患者の多くは、心臓の状況は非常に良いことがあったためであると思われた。また、とてもやせていることで、患部にも余分な処置をしなくても達するので、手術はしやすかった。3ヶ月の間に370例余りの手術を実施した。  その中で、衝撃的な出逢いがあった。ある若い女性の患者さんで、右足の膝の下に腫瘍ができていた。皮膚ガンの一種で、少しずつ悪くなる病気で、早く処置をすればそんなに問題の無いものであったが、病気になって数年が経過しているようで、患部は大きくなっており、深さもあり足の骨まで達している状況であった。いのちを助けるためには、足の付け根の方から切断をするしか根治する方法は無いと判断し、通訳を通してその事実を伝えた。本人は、とても驚きそんなに悪いのかと言いい、それでは、自分は小さい子ども3人もおり、仕事もできず、家でごろごろと寝ている事になってしまう。それでは家が崩壊し、家族が全滅するので困るといい、切断することはやめてくれと返事が返ってきた。通訳を介してのやりとりであり、話がうまく伝わっていないのだろうと思い、改めて丁寧に説明をして、切断しないと死んでしまうことになることを再度伝えた。すこし考えて、その女性は改めて、次の様な返事をされた。自分が、足を切り落とさないことで死んでも、それは仕方がない。しかし、自分が、死ねば夫は新しい妻をもらうことができる。そうすれば、小さな3人の子どもたちは、新しい母親の手で育てることができる。自分が、足を切断して、命がたすかり生きていっても、働けない私がいれば、家は貧しくなるだけで、そうすれば、家族が全滅してしまう。だから、私が手術を受けて生き延びるより、その方が家族も幸せに暮らせると思うといわれた。  今までの人生のなかで経験したことのないことで、自分自身の価値観がひっくり返る体験であった。今まで認識していた医学の常識では、すこしでも長く生きることが重要なことと考えていたので、自分のいのちが短くなっても家族のために生きるという生き方に感動をした。キリスト教の教えに「あなたたちは、あなたたちのキリストが死んでくれたように、あなたも兄弟のために死ぬように生きなさい。」という言葉があるが、それは、一つの表現だと思っていたが、本当にそういう生き方をしている人に出会って、自分自身が、アジアの貧しい人々を自分は救うのだと上からものを見ていたことに気づかされ、人間としては、ここで生きている人たちの方が、すばらしい生き方をしていると思った。宗教心が強く、信仰に生きていると言うことも強く感じたと話された。   (ネパールの活動の様子やネパールの地域の方の生活の様子を写真を見ながら説明をされた。) ○病院、アジア研修施設の建設  ネパールでの3ヶ月の活動を終えて、日本に帰国した。また機会を見つけて改めてネパールに行こうと思っていた。しかし、仲間の医師から、アジアの地域は、貧しいく、交通も整備されていないので、病院にきて治療を受けられる人は、治療の必要な人の20%程度で、病院に来くることができたとしても、病状が悪化していて治療できる状況ではないことも少なくないといわれた。そして、仲間の医師からの提案もあり、現地へ出向いての直接的な支援活動をするのではなく、予防的な活動になる公衆衛生に力を入れるような体制の整備ができるように、そこに関わる現地の医師や保健婦などを日本に招いて研修を受けてもらって、現地で活躍する人材を育てることができる、そういう研修施設をなど設立していくことを考えた。  1980年頃に、場所を探していたところ、日進市にある愛知牧場の地主の方が取り組みに共感をされて、土地を提供してくれることとなり、その地に、アジア保健研修施設と愛知国際病院の設立に至った。1981年に病院は、開院するが、その頃、医療の世界では、プライマリ・ヘルスケアという考え方が言われるようになった。プライマリ・ヘルスケアとは、「国民のあらゆる健康、疾病に対し、総合的・継続的に、そして全人的に対応する地域の政策と機能をすすめる」という考え方で、その考え方に基づきながら、病院の理念(モットー)「God heals,We serve.−神いやし我ら仕える−」や基本的方針は、「@キリスト教精神に基づく全人間的医療、Aアジアの健康の増進への理解と協力、B地域と共にあり、地域に支えられる医療」という方針での運営をすすめた。  多くの人が病院で亡くなる状況であったが、これまでの病院医療での関わり方の課題として、治療をどこまでも追求し、完治が難しい状況でも必要以上に治療をすすめてしまうこと、その一方でスタッフ不足でケアに関われる人がいない状況で、患者が痛みなどで苦痛を訴えていてもそれを緩和する関わり方が不十分であること、そして、患者や家族に対し十分なコミュニケーションがとれていない状況などが見られた。すこしでも1人1人が人間らしく生きられる治療を考えた。また、地域において、看護師が訪問して医療的なケアや精神的なケアなど在宅で、病気を持って生活している人の家を訪問し、そういう方々に関わる在宅での医療をすすめた。今でこそ、医療保険制度や介護保険制度で看護師が訪問することも珍しくない状況であるが、その当時は、まだ珍しかった。また、ガン患者さんなどが、終末期において、死を受け入れて生きていくことを医療の実践として取り組む緩和医療に取り組むことを考え、緩和ケア病棟(いわゆるホスピス病棟)を開設した。  ホスピスの定義は「ホスピスは死にゆく人と家族に対して、身体的、精神的、社会的、霊的ケアを、在宅と入院の両方の場面で提供する、緩和サービスと支援サービスの調和がとれたプログラムである。種々の専門家とボランティアが、多職種の医療チームを構成してサービスにあたる。患者の死後、遺族に対して、死別後の援助を行う。」(全米ホスピス協会)とあり、本人に対する緩和サービスはもとより、家族に対する支援や死後の遺族に対する支援も重要であると定義されていて、実践するなかでも本当にそのことは重要であると感じてきた。    (実際の緩和病棟での取り組みを写真を交えて説明されました。)    一例として、ある患者さんが、末期のガンと告知されてからも、趣味で絵手紙を書いていた。いろいろな身近にあるものを作品にされて、多くの作品ができあがっていたので病院内での展覧会を開催することにして、スタッフの協力も得て実施することができた。絵手紙をバックにうれしそうにスタッフや家族と笑顔で写っている写真の姿は印象的であった。その患者さんは、その展覧会からまもなく亡くなられたはが、どの方でも最期までどう生きるのかということを考えていくことの大切さがあることをあらためて実感している。  患者さんがどんな医師に診てほしいかと尋ねた調査で、自分たちに十分な説明をしてくれる人、また、われわれの気持ちをよく聴いてくれる人が、診てほしい医者の条件だった。腕利きで、きちんと病状を見立てることも大切なのかも知れないが、それ以上にそういうことが、医者が要求されることとしてあり、そういう事実を多くの医者たちも知ることが大切である。  また、ホスピス病棟で、病室内でもどういう形ですわるとリラックスして患者さんが医師など医療スタッフと話がしやすいのか考えている。また、多くの末期ガンの患者さんであってもホスピスで入院されている患者さんたちは、明日も元気で目を覚ましたい、少しでも痛みなどの苦痛が取り去れるようにしたいと思って精一杯生きていこうとされている。そういう中で、関わる者たちとして、本当に患者の気持ちに寄り添っていくことの大切さを感じている。 ○グリーフケアについて  グリーフケアとは、死別などによって愛する人を失うと、大きな悲しみである「悲嘆(GRIEF)」を感じ、長期に渡って特別な精神の状態の変化を経ていく。遺族が体験し、乗り越えなければいけないこの悲嘆のプロセスを、「グリーフワーク」と言いい、それを支えることをいう。  ホスピスの定義にもあったように、死にゆく人に対してケアすることも大切であるが、それと同じくらいその家族、また、患者が亡くなった後の遺族に対するケアも非常に重要であると感じている。先生自身、1年前に最愛の妻を失われて、遺族となりその立場の気持ちを痛烈に味わったと話される。それまでも、多くの患者とその家族と出会ってきて、そういう気持ちを知っていたつもりであったが、自分自身がその立場におかれて今まで知っていたつもりでいたのは、全く違うものであって、自分が最愛の人を失う気持ちが分かっていなかったことに気づかされた。  死別などによって愛する人を失うと、その人たちが経過していく過程は、一般的に、@ショック期、A混乱期、B不安、C怒り、D後悔と罪悪、E悲しみ、F体調の不調・うつというような過程を経過していくということであった。先生自身も、ショックで頭の中が真っ白になり、数日間は、ぼーっとして過ごしていたり、何を考えても話がまとまらないような混乱状況に陥ったり、自分のまわりで他の身近な人が、また亡くなるのではないか、自分自身が死んでしまうのではないかというような不安に駆られたりして過ごし、そして、半年後ぐらいには、胃潰瘍にもなり体調を崩す経験もした。ようやく1年ほど経過して落ち着いて物事が考えるようになった。本当に、自分の身に現実に起こり、遺族の家族の気持ちが、分かっていなかったことをつくづくと実感され、そして、悲しんでいるときには、時間が解決してくれること、また、休養をとって、少しずつ自分の中で、亡くなった人との歩みなど確認すること、私を必要としてくれる人がいるんだということを実感すること。そして、なによりも私自身が支えられて生きていると言うことを感じていく中で、自分自身を客観視できるようになり、自分自身の存在意義を持つことで、立ち直っていくことができた。そして、新たな目標を持ち、ちよっとした喜びなどの積み重ねで克服をしていくことができるものだと実感されたとのことであった。  仏教においてひとつの行事として亡くなった後の七日ごとにお参りにいかれることは、遺族を支える意味からも非常に意味があることだと思う。そのようなことも含めて、お寺にかかわっておられる方々は、そういう状況の方々と関われる存在であり、大切のお仕事をされていると思うと話された。