どうも皆さんご苦労様でした。ご紹介いただいた池田でございます。今回皆さん方のこの大切な場へ寄せていただいて共に聞法をさせていただくことでございます。よろしくお願いいたします。 今回、このご縁をいただきますについてですね、島津組長さんからうけたまわりましたこととしてテーマ・題は「正信と迷信」ということでひとつ進めてほしいということをお聞きしました。それで実はお聞きかもしれませんけれども、今日を含めまして四回寄せていただくということで、今日はその初回で「占い」というサブテーマが付けられていることでございます。そういう課題のもとでですね、お話をさせていただくということでございますが、どういうことになりますか、まことに心許ないのですけれども、また後で質疑の時間をもうけて下さっておりますので、ひとつぜひ皆さんのお声を聞かせていただいて、そこで少しでも補わせていただけたらありがたいとこう思っておりますので、よろしくお願いをいたしたいことでございます。 そこでですね、まず最初に一言申し上げてかかりたいことは、先ほども組長さんがおっしゃいましたけれども、皆さん方は「推進員養成講座」というのをお受けくださったということでございます。ですから率直にお聞きしたいんですけれど、推進員って何なんですか?これは・・どうお受け止めになってるんですか?推進員とはなんぞや?どうご返事なさいますか?どうぞご遠慮いりませんから、おっしゃって下さい。まあこれだけいらっしゃいますから、あまり下手なことは格好が悪いって事もあるかもしれませんが。ご存じの通り、現在、私どものご宗門が宗門挙げて推進しているのが、この同朋会運動でございますね。その同朋会運動のいわば中心政策と申しますか眼目になっているのが推進員を生むという課題になっておりますね。まあ私、養成という言葉が付いておりますけれども、それはそれで結構なんですけれども、内実から言うと推進員の誕生を願う講座、それが「推進員養成講座」と受け止めておるわけなんですけれども、となると推進員というのは一体何なんだ。と言いますと字からすればですね文字通り、推し進める訳ですから何かを推進していくわけですけれども、その何をっていうと端的に聞法でございますわね。仏法を聴聞させていただくということを推進するってことなんですね。 大体この同朋会運動っていうのがこれもご承知でしょうけれども、昭和三十六年・親鸞聖人七百回の御遠忌法要がご本山でおつとまりになりました。あれを契機としてですね、現代に真宗を回復しよう、それが親鸞聖人の御恩徳に応える道だということで始められたのがこの同朋会運動なんですね。ですから一にも二にもこの聞法・仏法を聴聞する、このことよりないわけなんですね。ところが誰に推進するんですかと・今度はそこでね。と、なると何はともあれ、まず自分自身に推進するということなんですね。我が身自身に推進する。そこに同時に、共に歩ませていただこうじゃありませんか。と、こういう形をとるわけなんですね。眼目はどこまでも我が身に聞法を推進する。これが推進員の命でございますね。その歩みをしてくだされば、今申しますとおり、そこに必然的に一人たりともって言いましょうか、共にっていうそういう動きっていうものが生まれてくるわけでございます。だからそういう意味で一にも二にも聞法を推進していく我が身に。このことをですね、一つ最初に、しっかりとご確認を願っておきたいことでございます。 そうして、この与えられているテーマに注目いたしますけれども、このテーマをうけたまわって、私が、すっと思い合わしましたのは・・皆さん方、真宗聖典はもってきてらっしゃらんですね。お家へ帰られたらぜひご確認下さい。真宗聖典の509ページでございますね。上の段そこはですね。『愚禿悲歎述懐和讃』という大変厳しい御和讃が連ねられてございます。それのNO7・8でございます。その御和讃をですね、ひとつこの四回の聞法のご縁を通して、皆さん方がご注目していっていただきたいと思うんです。 その御和讃っていうのは皆さんもよく存じのものなんですけれど「五濁増のしるしには この世の道俗ことごとく 外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり」「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祗をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」この二首ですね。NO、7と8のこの二つの御和讃です。これをひとつずっと憶念していっていただきたい思うことでございます。 さあそこでですね、一応、順序として申し上げたいことはこの「正信と迷信」というテーマをですね、ご覧頂いて、お聞きいただいて、そこから私たちがまず何を確かめなきゃならんのか、ということなんですね。いわば「正信と迷信」というテーマが私たちに問いかけてきておるものは一体何なのか。ということですね。と、申しますのはこういう課題を与えられてですよ。私が、正信とはこれこれであります。迷信とはこれこれであります。となんか試験の答案でも書くようにですね、正解を申し述べるっていう、そんなことを私は毛頭考えてないんです。そのことよりもっていうか、そういうことじゃなくて、だから今申し上げる訳ですよ。「正信と迷信」というこういうテーマをいただいて、このテーマが私たちに問いかけておるものは何なのか、そこに着眼することが一番大事なんじゃないかと思うんですね。それでまあ今日は初回ですので、その一点を申し上げたいと思う訳なんでございます。 その点でですね。私が日頃よくこういうことを申しておるんです。だからちょっと皆さん方にも手がかりに申し上げるんですけれども、暮らし方と生き方といことを私は申しておることでございます。暮らし方も生き方も一緒ないのかとお思いかも知れませんけど、私としては言葉を選んで申し上げてる訳なんですけれども、暮らし方と言った場合ですね、これは一体何を言うのかというと、その人その人の境遇ですね。つまり暮らしざまということですからね。より具体的に言うと、それはいわゆる職業ですね。その方がどういうお仕事をしていらっしゃるかという、そのことに象徴される、その方の暮らしざまですね。境遇です。それを私は暮らし方と言うわけです。 そういう暮らし方の根底に横たわっておるというか、問われておる事柄が生き方ということなんだ。そうすると、この生き方っていうのは何かというと、いわば姿勢の問題なんですね。つまり自分のその境遇をどういう姿勢でやっているのか、やっていくのか。言葉通り姿勢の問題なんですね。ですから、いわば、ものの見方、受け止め方、関わり方、行動の仕方等と申し上げていいと思うんですね。それが姿勢っていうことです。どういう姿勢で自分、自分のこの暮らしざまを営んでいくのか。だから一番基本ですわね。根底の事柄であるわけです。この姿勢の問題のところで出てくるのが「正信と迷信」ということなんです。 ですから「正信と迷信」というとこう言うと皆さん方、信仰の話やなあ宗教の話やなあ。とお思いでしょうけど、そうストレートにそうおっしゃらないでね。で私はこうこだわる訳なんです。正信・迷信っていう問題っていうのは、私どもの生き方の問題なんです。生き方が問われてる。そこに横たわっている大きなテーマが「正信と迷信」ということなんです。だからいわば正信という姿勢、迷信という姿勢それこそいずれの姿勢でこの人生を生きていくのか。こういう問題になるわけなんですね。ですから決して特別なお話ではないってことを、そこで承知していただければと思う訳なんですね。 そうしますとここでですね、私たちは言葉が二つございますから、正信ということは字から言っても正しいことだと、迷信というのは迷ってるということだから、これはあんまりいいことではない、よろしくない。だから我々はすべからく迷信を捨ててですね、正信につかなきゃならん。そういうことなんでしょうねと皆さん方のようなすばしっこい方は話の先回りをして、お聞きなるんじゃないかと思うんですけど、そうお思いになるとまた問題なんですね。つまり迷信のほうを捨てて正信のほうにつけという話なんだろうと。そんなことじゃないんですわ。だから、私は「正信と迷信」ということを出されますと、何を一番見極めなきゃならんかって言ったら、迷信ということをどこどこまでも見極めなきゃならん。正信のことは横に置いとけばいいです。極端に言ってしまいますとね。正信はそうお聞きにならんでもいいんです。迷信というのが一体何を表しているのか、私にとって迷信というのは一体どういう事柄なんだ。これを一つとことん見極めていくっていうこのことを他にしてないと思うんですね。 なにかこう私達は、全ての場合そうなんですけれど、これならこれで正信と迷信と聞くと、前に二つ並べて、どちらがいいのかな。どちらに自分は付かなきゃいかんのかなあ。なんて見物するような調子で聞いてしまうってことがあるんですけれど、そうじゃないんですよ。今、私の申し上げたことから言ったら結局ですね、私自身を聞くことになるわけなんですね。先に申しますと、私自身を明らかにするということこそがこういうご縁をいただく眼目なんだということなんですね。ですから、正信のことは横に置いておいて、迷信ということを一つとことん見極めていただくと、これが大事なんでありますね。 これは皆さん方、日頃こういう話が出るとお聞きでありましょうけれど、迷信という今日、国語のうえでも、れっきとした言葉としてあるわけですけれども、考えてみますと迷った信ということはですね、そんなことはないんですよね。迷った信仰っていうことはないんですよ。なんでかっていうと少なくともそれをやっている本人からしたら正信ですもん。違いますか?私は迷信をやっとりますって人はいないと思うんです。自意識においては正信しかないんですわ。何を信じてらっしゃろうとね。だから迷信というのはそういう意味ではないことなんです。ならばどういうことなんだと言ったらね、問題は迷信っていうことを言うならば、迷った心、迷い心、これが迷信なんですわ。だから普通言う迷信というものは厳密に言ったらこういうものはないの。だから課題は迷信、心、こう受けとっていただかなきゃならんことになるんですね。 さあ、そうしますと迷う心、迷っている心ですね。この問題なんですわ。けどこう言っとても皆さん方、おそらくそういうご認識っていうか自意識はなかろうと思うんですね。お寺に来るとなんやら迷っとるとか、よう言うけど私は別に迷っとるとか意識はさらさらないと、こうお思いの方が多かろうと思いますね。今、自分が迷ってるなんてそんなこと全然、感覚できないですわね。事実、その通り。迷った心、言うけれどもこれもピンとこないと私達にはあるんですけれども、じゃあ迷ってる心っていうのはどういう心をいうのだと言いますと、まあこれはいろいろ言い方があるのですけれども、仏教の言葉で申しますと、これももうお聞きでしょうね。無明っていう言葉を皆さん方ご承知と思います。これは作家が小説でよく使う言葉ですから、そういう意味では一般化しているといってもいいような言葉ですけれども、無明っていう言葉ですね。無明っていう言葉は、道理に明らかでないってことですね。道理に暗いっていうことを無明とこういう訳ですね。そうすると迷った心っていうのは基本的に無明の心っていうわけです。真理に暗い心、道理が明らかでない心、それを迷信と迷った心とこう言われるわけですね。 そうするとその迷った心、無明の心っていうものは、じゃあ何を要求っていうか、求めているか、追っかけているか、そこですよね。そういう私達の無明の心っていうのは、何を欲しているんだろうか、追っかけて生きているんだろうかと、こう申しました時にですね、これもいろいろ言い方があるんだろうですけれども、私はある意味では大変大事な言葉なんですけども、息災延命ということですね。私達の心が追っかけてるもの、願ってるものは何だといったら、息災延命、このことに尽きるんじゃないんでしょうか。つまりいかなる場合でも、まあ単純に言ってしまえば自分の思ったようになりたいっていうのが私達なんですね。だから自分の思ったようになれば私は幸せですっていうことですね。思ったようにならんと私ってなんてこんな運命の星空に生まれたのかっていうわけで、愚痴るわけですよね。だからその意味では単純ですよね。自分の思いどおりになることを意識するにしないにかかわらず、私達はそういうもの常に追っかけてますよね。それを具体的な言葉で言うと、息災延命というこの言葉に集約されると思うんです。息災というのは災難を留めて命を延ばすってことなんですね。私達の思っていることっていうのはこの四文字に尽くされるんじゃないんですか。 日頃、皆さん方もいろいろ神社・仏閣へおいでになるでしょうけれども、観光バスで旅行するってことがまあ大変なことですけれども、皆さんよくお出掛けになる。そしてその時に神社・仏閣回られるっていうことがあるんですけれども、そういう時によく皆さんおっしゃるのを聞いてると面白いですね。「どこでもいい。手を合わして拝むっていうのはいいことやでなあ。」ってことおっしゃるんですね。かと思いますとね、「手を合わして拝んどけば、なんかいいこともあるやろうでな。」そんなようなことで回ってらっしゃる。だから私はもう、「あなた方は神社・仏閣を拝み倒して歩いてるんや」とよく言うんですけれども、本当にそういうような実態ですね。息災延命を求めて生きているわけなんです。これしかない。だから、一般に宗教とか信仰って言ったら、ようは息災延命を神さんか仏さんかに突き付けてお祈りをすることだと、そんなふうに一般には思われているということがあるわけでございますね。まあこういうことは皆さん方いつもお聞き済みのことなんでしょうけれども。 ところがですね私は今ここで言いたいことは先ほど申し上げたこと、正信は横に置いて迷信をとことん見極めることですって申し上げた、そこのことなんですけどね。私達の願っていることはこれなんです、具体的にはですね。このことに蓋をして浄土真宗はそういうことは言わんのやと、商売繁盛・家内安全そういうことは言わんのやと、それはいけないのやと、だから私達はナンマンダブツを聞きましょうなんてね。こう皆さんおっしゃるんだけど、その時は息災延命に蓋をして、そして、ナンマンダブツを、とこうやるでしょう。だから、もうナンマンダブツが頭の上。飛んでしまってるわけですね。そうでしょう。臭い物に蓋をするわけじゃないけど、これ蓋してしまうわけですから。 私はねえ、ホントにこの仏法を聞く、まあ大変失礼なこと言いますけど、皆さん方こう来て下さったけど、本気でお聞きになるっちゅうことがあるんですか?そんなこと言うたら、御無礼ですね。本気やで来たんやわさ。けど、あんま信用できんとこもあるんけど。大体そうね、まあさ、誘われたから来たとかさ。いろいろあるけど、それも御縁ですから、結構やと思いますよ。けど、本気になって聞くっちゅうことになるとね、これまた、聞き方が変わってくるんですね。と言うことは、どういうことがなるかというと、蓋ができないわけですわ。今言ってることから言うとね。蓋ができなくなる。つまり、自分を誤魔化せない、っていうことになるんですわ。自分を誤魔化せないという在り方が、本気で仏法を聞く姿勢なんですよ。聞き方なんですよね。 うん。そうですね、あの皆様もよく御存知の句だと思うんですけど、小林一茶の句に、こういうのがございますね。「露の夜は、露の夜ながら、去りながら」と。乱雑に書きましたけども。大変名高い句だと思いますね。「露の夜は、露の夜ながら、去りながら」と、これは小林一茶がですね、我が子をね、まだ小さいお子さんだったようですが。我が子をね、亡くした時に詠んだ句だということで、大変よく詠まれているものなんですね。露の夜。これはもう申し上げるまでもないですよね。生有るものは必ず死に帰し、しかもそれも、老生不定だと。これはもう自然の法則。それがこの世の習い。露の世の姿。その通りだ。分かってるんですね。分かってる。けど、実際可愛い我が子を亡くした時に、そう言って済まされないことが突き上げてくるっていうことがあるんですね。「露の夜は、露の夜ながら、去りながら」と。この世はこういうところなのだと、聞かされ、承知しておるけれども、そうは片付けてはおれない、済ましておけない。その、何て言いますかね。感情、心情ですね。それが、こういう句になってるわけでしょう。ということはね、私達が、こういう御縁に遇うってことのね、その態度ですね。それをこの句は、私は非常に如実に顕していると思うんですわ。 今ほど、自分を誤魔化さないっていうことを言いましたね。その自分を誤魔化さないっていうこと、そのことを明らかにするについてですわね、こういうことがあるんですよね。何かこうお寺へ来てお話を聞くということをね、何かこうみんな理想論にするんですね。これは私も日頃、いろいろ皆さんと座談会しているとね、そういうことを本当に強く感じているんですけれどもね。この前もある所で、そういうことをハッキリ言われた男性の方がおられました。五十代の働き盛りの男の方でしたけどね。まあ、率直に言って私は、お寺で聞かせてもらう話は、生活の現場へ戻ったら、何も間に合いませんわ、ってこう言われる。何でそのお寺に来ないのか、っていう話しからそうなったわけなんですよ。だから、私はあまりお寺へ来んと、こう言うんですね。その男性はね。正直な言葉ですね。お寺で聞く話は生活の現場では、間に合わない。これね、とっても大事なことなんですよ。そう言う御意見に象徴されるような聞き方なんです。私たちは。ということは今言うように何かここで聞く話は、理想論にするわけですね。そう思えたらよろしいいけどな。なかなか、そうは思えませんでな、って話でみんな帰って行くわけなんですね。 だから、私はね。まあ、ざっくばらんに言いますと、よく言われるんですね。今日は結構なお話を聞かせていただいてありがとうこざいました、ってね。お礼を言う方が時々ある。けど、私はああいう言葉を聞いても、全然信用しません。ああ、この人も駄目やな、っと。そんなことは言いませんけど。腹の中では思っています。そない奴が、みな今言ったように、そりゃそんな風に思って、日暮らしができればいうことないけど。娑婆はそんなわけにはいかんのやで。そういうところで帰って行くわけなんですわね。だから、どれほど来とってもあかんのですわ。 で、そこでね、あのゴテゴテ言いますけど。聞法するということはね。人間離れをすることではない、っていうこと。これ大事なことですよ。人間離れをすることではない。まあ、一つ道理をわきまえたら、もうどんなことが起きてきてもね、たじろわない。でん、と腹がすわってなんてね。なんか、そういうことをイメージするんだろうけれども、そういうことになると、これはね、もう凡夫離れをするわけなんです。仏教の言葉で言うとね、もう凡夫でなくなっちゃうんですわ。つまり、人間離れをするわけですね。人間離れをするような話には、私たちはついていけない。親鸞聖人っていう方は、そういう方だったのですよ。かっと言ってね、今の話や、人間だからしゃあないやんか、と。こうやるならば、元も子もないですわね。世俗に流されていくわけですから。だから、親鸞聖人の歩まれた道っていうのは、人間であるという事実を徹頭徹尾明らかにすることによって、人間である事実、事実を抱えたままで乗り越えていく生き方をいただいていった人なんですね。 だから、またこの句ですけど、ホントに「露の夜は、露の夜ながら、去りながら」。これは人間離れができないっていうことでしょ。ね。人間離れできない。かっと言って、ね。人間だからしゃあないんやと、こういうことがね、出てくるんやからしゃあないじゃないか、と、やれば申し上げるとおり、元も子もございません。そこに課題は、こういうものがつき動いてくる。理屈抜きで、つき上がってくる。そういう事実っていうものを誤魔化しなしに、きっちりと見せていただく。それこそ、まあ、我々、日頃聞かされる言葉でいうと、照らし出されることによってだけ、その事実を超えていくことができる。そうなんですよね。 で、元へかえしますけど。私たちが願ってることは、息災延命なんです。真宗はそういうことは言わんのや、と。お念仏や、と。こうこうね。おっしゃるんだけども、これに蓋をしてお念仏やって言うなら、そんなん観念でしょ。私は頭の体操って言うんだけど。頭の体操でしかないわけですわ。私は、あの桑名の人間ですけど。桑名はいろんな人がおるんですね。結構その仏法の御縁に遇っているということがあるんですけどもね。さあとなると、こうおっしゃるよね。さあとなると、こうなりゃ念仏なんかやっとれんわ、と。そいで桑名にですわね、通称「どぶっつぁん」っていうお寺があるんですわ。真言宗か何かかと思いますけどね。それは何かというと、見てもらうんですよ。今日の話じゃないけど、占いや、見てもらうっていうお寺なんですね。だから、桑名の人は、こうなりゃ念仏なんかやっとれんわ。「どぶっつぁん」へ行って見てもらわなならん、ってこうね。そうなんですよ。そういうことを言うのが我なんですね。そういう事実に蓋をして、お寺へ来て御本願だ、お念仏だって、そんなもんどれほど聞いとたって、みんな頭の上に通過するだけですよ。そうでしょ。ホントに求めているものは、これなんです。これをいつも追っかけている、この自分を徹底的に照らし出していただく、っていうことが仏法を聞くっていうことなんですね。だから、ここから足洗ってなんて、とんでもございません。もう、私そのものなんですよ。 だから、一応言葉として言えばね、迷信を捨てて、正信につくっていう、まあ、そういう言い方がされますけども。しかし、迷信を捨ててっていうことは、私が迷信から足洗う。心も。行動も。まあ、これね、また話が出るかもしれませんけど。行動と行い、これはね、一つ気が付くと捨てる。捨てる、離れるってことがあるんですね。離れられるんですよ。ところが、心ですわ。これはもう、ホントに私が生きとるかぎり引きずる問題なんですね。 あの、そこであの、もう一つちょっと、御和讃を申し上げとくんですけども。高僧和讃でございますけどね。善導章ですけれども。『聖典』では、四九五頁でございますけども。七高僧のなかの善導大師を讃嘆なさった御和讃が、ずっとそこ出ておるんですけども。ナンバー六です。第六首ですけれども。これもみなさん、よくご承知かと思います。「仏号むねと修すれども、現世をいのる行者をば、これも雑修となづけてぞ、千中無一ときらわるる。」、厳しい言葉ですね。そうすると、このお言葉、というのはね。「仏号むねと修すれども」、仏号っていうのは南無阿弥陀仏でしょ。「むね」、宗ですわ。お念仏しかなかったと、そこ一つ知らされておりながら、その下で、「現世をいのる」っていうことが動くわけですよ。もう、お念仏聞いたら現世を祈るっていう、そんな心はもう私には、もう無くなって、もう全然そんなものは顔を出しません、ってとんでもないことなんですよね。「仏号むねと修すれども」、お念仏一つと、知らされておりながら、現世を祈る心。理屈抜きですね。 皆様方、今日お集まりのお顔を見てますと、そういうところをお済みになった方が多いようですけども。例えばですよ。明日子供が高校受験する、大学受験する、孫が受験する、就職試験する、受ける。そういうような前日、夕方ね、御内仏で御夕事をやっとる。往生安楽国、チンチンチン、ナンマンダ、ナンマンダ、どうか明日孫が受かりますように。ナンマンダブツ、ナンマンダブツ。これも理屈抜きでしょ。そんな心は私には毛頭も動きません、っていうこと言ったら、そりゃあんた人間ではないわ。そうでしょう。だから「仏号むねと修すれども、現世をいのる行者」。だから、私が生きてるってことは、息災延命を追っかける、これが、生き続けていくっていうことですわ。そこらをね、一つよくよく、聞き開かなあかんところだと思いますよね。 そいで、まあ、ゴテゴテ言うようですけども。そういう私の実相をね、ホントにこう照らし出されるところに、私たちのね、言わば虫の良さですね。つまりそこに、今度はね、道理が見えてくるですわ。道理が。道理が教えられる。その道理っていうとね、あの、難しくお思いかもしれませんけど、早い話が、私たちはね、苦因をまきながら、つまり、苦しまねばならんような種をまきながら、その結果だけは御免蒙りたい、ってわけですね。そんな私なんですよね。種をまきながら、その報いだけは御免蒙りたい。反対に、都合の良い結果であったら、そういう種をまいていなくても、きてほしいという。どうです。ホントに虫が良いっていうのか、ねえ。もう、エゴといつも教えられるのは、そこなんですよ。ご都合主義なんです。エゴです。そういう生き方しかしていない、そういう自分の無明ですね。真理に暗い、この在り方に、一つハッキリと気付かされる。気付かされてみると、皆さんそこには、懺悔って言われるのがそこなんですね。懺悔って。回心懺悔っていう言葉がございますけれども。それです。そこに、気付かせていただきますと、じゃあ、その、そういう厚かましいものが、私から消えるのか、そこから私が足が洗えるのか、じゃないですね。今ほども辿っておりましたとおり。じゃなくて、目覚めたところから、いのちあらん限り、そういう私の無明性でね、厚かましさ。これを、生涯問題にし続けていく歩みが始まるっていうことです。それを信仰生活って言うんですよ。気付かされるから、気付かされたそれを、問題にし続けていくんです。まあ、また虫の良いこと考えとるな、また自分の都合のええことを厚かましくも考えておるな、そうしてぼやいているんやな、ということが一瞬一瞬知らされていく。うん、そうですね。 だから私たちは、そういう意味では、この目覚めるっていうことはね、それを、親鸞聖人の言葉でいうと、信心とおっしゃるわけで。まあ、さっき、このタイトルから言えば「正信」っていうことになるわけですけれども。信心というね、事柄っていうのは、私たちはいつも何か、信心を頂くとかね、信心獲得っていう言葉もございますからね。いるんだ、ってこう思うんだけども、じゃないんですね。信心っていうのは、これは、譬喩的に言いますと、心眼。眼なんですね。目玉なんですよ。目玉って言ったら、面白いですね。目玉は何でも見るだけれども、目玉自身が見れないっていうのが、目玉なんですね。そうすると、信心というのは目玉なんで、私の目玉になってくださる。目覚めたその心が、智慧が、私の生きるホントの眼になってくださる。だから、今まではね、全然問題だと思わなかったことが、問題として見えてくるわけです。 だから、その意味ではね、仏法を聞くっていうことは、答えを聞くことではないんですね。問いが分かる眼を、聞き開くことなんですね。だから聞けば聞くほど、今まで夢にも思わなかった問題が、見えてくるんですわ。だから、信仰生活っていうのは、そういうことなんですね。問題、はい。まあ、そこはまた大変なですね、ことでございますけども。まあ一応、申し上げますと、そういうことなんですね。だから、どこまでも私たちは、目覚めることによって。つまり、私のからくりっていうものを、ホントに気付かされるっていうことによって、その気付かされた眼から、見ていく歩みが始まる。自分を、さらには、社会を知見していく歩みが始まるんですね。こういうことなんですね。 ですから、まあ、ちょっと話飛びますけども、皆様方も聞いておられるでしょ。真宗教団が現実の社会の様々なこう問題から問われているってね。厳しい事柄、差別の問題とか、靖国の問題とか。まあ、そういう問題があるっていうこと、皆さんよく聞いておられると思いますけどもね。ああいうような事もね、実は、この本当の眼を聞き開かせていただいたことによって、その眼から見えていくことなんですね。だから、この心眼が開かん限りは、何でそんな靖国のことを言わんならないんや、とかね。何でそんなことを問題にせねばならないんか、と。まあ、そんなことでしかね、ないと思いますよ。けど、この眼が開くことによって、はじめて、ああホントにこれ問題だったんだな、っていうことが、見えていくわけです。はい。よろしいでしょうか。お分かり難いですかね。 あの、私、これもよく申すことの一つなんですけども。今は亡くなりました、有名なクリスチャンの作家でいらっしゃったんですね。遠藤周作さん、という著名な方がおられました。あの、遠藤周作さんの作品ですね、まあ、皆様方の中でも、よく読んでらっしゃる方もあろうかと思いますけども。あの、今私が申し上げるのは、これは作品じゃなくてですね。まあどういいますか、エッセイとでも言いましょうかね。っていうのは、もっと内容を言いますと、そのクリスチャンでいらっしゃるものですから、あの、いろんな機会に、いろんな人から、いろんなその質問を受けていらっしゃるんですね。それを、いっぺんこう整理して、こう自分として、きちんとこうしておきたい。そういう気持ちが、そう動いたっていうことでね。で、それを一冊の本にまとめていらっしゃる、っていうのがあるんですよ。これも、随分もう出てから、年月が経っているんですね。ええ、その書名はですね、『私にとって神とは何か』っていう、そういうタイトルになってます。この神っていうのは、日本の八百万の神ではないですよ。キリストのゴッド、神ですね。『私にとって神とは何か』。そういうタイトルなんですけども。その中にですね。こういう下りがあるんですね。大変、あの、やさしく言われているので、どなたにも通じるっていうか、お分かりいただけることでないかと思うんですけども。 まあ、こういう内容ですね。「私に子供がいたとします」、遠藤周作さんっていう方は、お子さんが授からなかったんですかね。授かっていらっしゃらなかったんですか。だから、まあ、そういうことをですね。「私に子供がいたとします。その子供が癌になったとします。親としての私は、もう昼夜の別なく、天に在す、父なる神に、お祈りを捧げるでしょう。どうか、我が子の病気を治してください。一生懸命お祈りをすると思います。けど、我が子は死んでしまいました。私はそこで、きっと、喚き散らすと思います。あれほど、一生懸命お祈りしたのに、奇跡は起こらなかったじゃないか、と。この世に神も仏もあるもんか、と、私は吐き捨てるように、泣き、叫ぶことと思います。けれど皆さん、本当の宗教は、そこから始まるものなんですね。」、こう言ってられる下りがあるんですね。私はそこで、ホントにこう何ていうか、うん、勿論、仏教とキリスト教はね。大きな違いがございますけれども。そういう人間としてのね、真実の生き方を求めるっていう、そこに立った時にはね、どこか一点相通ずるものがある。それが、今のここのね、その文章からすると、その一例だと思いますね。親鸞聖人のお心と相通ずると、私は感じるんですね。 そうです。私たちの有り様を、遠藤周作さんが、何か代弁しとって下さるじゃないんですか。ねえ。一生懸命祈った。効果がなかった。それじゃ、神、仏を恨むという形ですね。この世に神も仏もあるもんかと、叩きつけるだろうと。けれど、本当に宗教するということは、そこから、出発するんですね。意味深いですね。あの、私の解説は不要ですけれども。その神も仏もあるもんかと、こう叩きつける、っていう時はね。つまり、私のイメージしていた神、仏が、崩壊したっていうことですわね。つまり、その私たちというのは、そのさっきから、こういう息災延命を願って生きとるって言いましたけどもね。これは言えば、私という人間が、あの生きるっていうことはね。如何なる場合でも、期待ですわ。この期待、ね。他に関わるときは、必ず、期待。ここで関わるわけですね。 その意味では、今日でも皆さん方ね。貴重な時間を割いて、法光寺さんへおいでになったんだけども。それなりに期待をして、おいでになったんかもしれないですね。何か良いこと聞いていこうと思って。おあいにく様でしたと、申し上げるしかないですけどもね。一時な万事なんですわ。もう我々は、もう期待っていうことがないと、関われないわけですね。だから、事、信仰ということになったって、期待するわけでしょ。遠藤周作さんのお話はそういうことで。ところが、この期待する心っていうものが、描いた神とか、仏とかが、消えてなくなるっていうことなんです。これが本当の宗教が始まる、一点だと。こういうこなんですね。そうでしょ。だから、皆さん方ね、私は阿弥陀さんを拝んでます、っていう人もあるかもしれないね。私は変なものは拝んでません。阿弥陀さんを拝んでますから、私は正しいでしょう、っておっしゃりたいかもしれんけど、ちょっとそれは曲者ですね。ええ。あなたがイメージした阿弥陀さんを、拝んどるんですわ。ホントの阿弥陀さんを拝んどるか。そうですよね。だから、結局自分のイメージした神さん、仏さんを拝んどる。その、イメージした神、仏っていうものが、消えて亡くなった。これが大事なんです。それが亡くなる、消えて亡くなる。そこから、ホントに道を求める。宗教するってことが、始まるのだと。まあ、そういう意味では、ホントに何ですね。考えさせられるって言いますか。ホントに味わなねばならない、ご指摘だと、こう思うわけでございますね。 はい。そういうことでですね、ええ、どうも話行ったり来たりで、恐縮ですけれども。この「正信と迷信」という問題ですね。その迷信こそ、明らかにしなきゃならんのだと、いうこと。何か、こう一点、受け止めていただければ、と思うわけですね。そうすると、もうそこで一つ言えますことは、そういうね、道理に暗い、無明の心、迷いの心ですね。迷いの心の産物でしょ。うん。何が「良時吉日えらばしめ、天神地祇をあがめつつ、卜占祭祀つとめとす」という、今の御和讃のね、お言葉に出てきとるものは、結局そういうことなんですわね。私たちのそういう迷い起こるの、生み出したものなんですね。だから、私たちが生きとる限りは、無くならんでしょうね。だから、無くならないっていうことはね、また、面白いっていうのも変ですけど。それでね、おまんま食べる人が、たくさんおいでになるんですからね。営業妨害っていうことにも、なるわけです。事はややこしいことわけですけどもね。だから、その良時吉日でしょ。時、日を選ぶ。まあ、吉凶を選ぶっていう。そして、諸々の神々を祀って、そして「卜占祭祀つとめとす」と。これ、みんな私たちのそういうね、闇の心が、創り出したものなんですよ。闇の心が創り出したものに、私たちが振り回されるわけなんですね。それが、我々のこの、今日の流転といわれるものの構造なんですね。 さあ、それで今日、占いっていうことが、出ておりますんで、一言だけ、申し上げて止めますが。この、御和讃で申しますと、卜占という言葉になっておりますね。要するに、これはどちらも占いということなんでございますけども。あの、「卜」は卜筮ですね。「占」は占相と、こう言います。で、この卜筮というのは、「筮」っていうのは、筮儀ということが、ありましてね。よくあの、占いの人が、細い箸のようなものを、こう束に持ってて、こうジャラジャラとして、云々するじゃないですか。あれ筮儀とこう言いますけどね。あれ、五十本ほど細い、ええ、箸みたいなものがあるんだそうですけどもね。あれで、その事の吉凶を占うというようなことですね。占相という語。これも占いなんですけども。これは、それこそ、家相、家の相。人相、墓相。そうですね、最近は墓の相まで、お墓の相まで、云々するっていう時代。何でもその、墓相、家相、人相等々ね、を見るというのが、これがその占相でありますけども。実はこの、そういう意味では、これはまあ、同じことなんですけれども。もう一つ言葉を足しますと、易ですね。この易のなかにこれなんですね。卜占なんですよ。易というのはですね、あの、これ象形文字でございましてね。あの、見ますと、トカゲですわ。で、トカゲという虫は、色が変わる。それで昔の人はね、そのトカゲの色の変化を見て、事の成り行きを判断した。こういうことなんですね。だから、易というのは、トカゲの変化からきておる。だから、占いっていうのは、これはトカゲ占いっていうことですわ。まあ言わば、昔の人のね、まあまあ、好意的に言えば、生活の知恵であったと、いうことが言えるのかもしれませんけども。そういうものに、まあ言えば、人間が頼って生きてきた。っていうことが、これが今日も尾を引いてるわけでございますね。 だから、私たちは何を拠り所にして生きるのかという、その確かなものがね。見つからない限りは、それこそいつも言われるとおりですね。ホントでないものを頼りにすると、本物だとね、勘違いしてそれを拠り所とする、ということが指摘されますけども。何かこういうことを見ておりますと、如何にこの、人間ですね、うん。真理に暗い。道理に暗い。無明の心情でもってね、それこそ、どう言ったらいいでしょうかね。そういう人間の弱さが生み出したものに、何かこう振り回されて、流れてきてるんじゃないかな、ということをね、思い知らされることなんでございますけども。 ですから、まあ、そういうことも一言合わせね、お考えいただきますというと。そうでしょう。おそらく、これ「正信と迷信」っていうことでも、皆さん方、自分の問題と、おそらくお考えでなかったんじゃないかと思うね。まあまあ、せいぜいお寺に来るのは、「正信」の話を聞くんや、とあるかもしれんけどもね。「迷信」、そんなものは私には、というね。そういうお考えの方が多いかもしれませんけども。今日、申し上げたことから言うと、あなたが、あなたが今日生きているっていう、その生き方は、迷信そのものの生き方ですよ。っていうことを、申し上げたかったわけですね。よろしいですか。迷信が動いとる。 あの、これね、あのもう一言、言わせてもらいますね。人間関係で申し上げてもいいんですね。まあ、今日も女性の方のほうが多いですから。それで申し上げますとね。私、よく自坊でも門徒さんに聞くんですけど。あなたは、御連れ合いを信じておられますか、と。こう聞くんですよ。皆さん方どうです。お父さんを信じておられますか。どうぞ、言うて下さい。遠慮せんと。御連れ合いを信じておられますか。それは、皆さん方ね、おっしゃるでしょうね。お前は何を言うんやと。そんなもん、信じておるに決まっとるやないか、と。信じていなかったら、どうして一緒に生活ができる。言われりゃ、その通りですね。ほじゃ、皆さん方はね、奥さんであれば、お父さんを信じてらっしゃるわけでしょ。と、思ってられますわね。だから、それをいっぺん阿弥陀さんに聞くんですわ。親鸞聖人にお聞きするんです。ええ。私はお父さんを信じております。これホント、本物ですわねと。これいっぺん聞くんですね。すると、何とおっしゃいますか。それを疑というところとす。疑っとるという。いや、そんなことはありません。もうお父さんを腹の底から信じております。強調したい方も、おいででしょうね。けど、なんぼ腹の底からって言ったね、ああ、それを疑と言うのだと。疑っとると、こう言う。何でです。そこが分かるか、どうか。うん。そうするとね、言おうとしたことは、夫婦関係も迷信関係なんです。私たちは。あなたが、お父さんと共に暮らしていらっしゃる。迷信関係、疑と。って、この疑と、疑い。これどういうことかというと。『国語辞典』を引くまでもないんですけども。「対象に対して不決定な心理状態」と、こう書いてある。そうすると分かるでしょう。お父さんを腹の底から信じておると。こうおっしゃってもね、その信じてるということが、決定性を持たんのですわ。どうして。状況次第でいつサヨナラになるか分からん。違いますか。ねえ。縁がないから、それが表れないのであって。縁が催して、お父さんにそれがね、表れたら、あんたってそんな人とは思わなかった。サヨナラとこうなるのですね。 だから、皆さん、信じてると言っても、それだから疑ってるってことです。信じてるなんて厚かましいわ、そんなん。賜ってるんですね。だから、お父さんとあなたの関係は迷信関係です。そうしたら、一体、正信関係とはどこに開かれるのか、と。これは、やっぱり、今度もこういうね、講座を聞いていただくと、何か分かるみたいと。まあ、そんなことで、だから決して特別なことを、あの言うことではなく。だから、迷信てことを、どこかで誰かが話し合う。そんな風に思ってらっしゃったら、大間違いです。私の心そのものが迷信体質なんですよ。うん、そこにいって、ハッキリ目を開いてこないというと、それを乗り越えるっていう世界が出てこない。そこまでいくとハッキリしますからね、ハッキリ言いました。本気になって聞いて下さいっていうこと。皆さん方、推進員の養成講座をお受けになったのですから、そういう御縁ですから、本気になってお聞きになって下さい。 本気にお聞きになるとね、どうなるかというと、私はね、この言葉大好きなんですけど。本気になると自分が変わる。世界が変わる。付き合いやら、義理やらそんなこと言ったて、なんぼ、お寺に行ったて、何も変わらへん。本気になったら、変わるんです。 さっきの始まるまえに控え室でちょっと言ってましたが、今度のこの御縁は、島津組長さんからお聞きしたときに、ああそうですかとお受けしたんです。名古屋教区の三十組って、どういう組なんかなって、お寺の名簿見たらね。もう、そうそうたる先生方がおられる、この組内なんですよね。こんな所で私が行く必要なんて何もないんだって、こう思ったら、何か気が重くなってね。何か、お受けしたんですけども、どうも、うん、ここからわざわざ行かんでも、地元に立派な先生方が、たくさんおいでになるんだからと思って、今日も重い足を引きずりながら来たんでございます。正直これは言います。僕は。まあ、今日も司会して下さった荒山さんをはじめこの組はそうそうたる方がいらっしゃる。また、どうか聞いてください。せっかく寄せて頂いたのですから。まあ、ともかく私は、その、皆さん方が今日うまいこと聞いてらっしゃるのを、それをかき回しに来た、とこういうことなんですね。かき回すことができたら、私が寄せていただいた甲斐があるって、自分では今思ってるんですね。ということは言葉変えると、皆さん方は分かるって思ってられるでしょ。あなたが分かったって、何もできんだけなんですよ。ホント、本気になって聞くとね、分からんことがハッキリするんですよ。だから、分からんことがハッキリするのを、それ本物って言うんです。みんな分かってしまうから、分かんない。だから、分からんようにできたら、私が寄せていただけた意味があるかな、っと自分で思ってます。 今日のお話はよう分かりましたっていう。偉そうなことを言うようですよね、中にこういうことを言う。結構なお話を聞くっていうことがありますでしょ。だから、私腹ん中で言うんですよ。あんたに今日の話、結構か、結構じゃないか、ってそんなこと見分けられる能力があるのか、と。ホントにそうですよ。ご無礼な話なんです。と、偉そうなことを思ったりしておるようなことなんですけど。やっぱり、真面目な話、だからどうか一つ、皆さん、本気になってお聞き下さい。すると、本当に仏法に遇えて良かったな、ってそういう世界がね、味わっていただけると思います。それじゃこれで、ね、一時間になったから。はい、どうも失礼致しました。 (テープ起し協力:西尾市安楽寺 伊奈 潔 氏)