◇講義 講師 池田勇諦師 テーマ 正信と迷信:御利益 讃頌会第3回研修会 ◇注 本文中の( )内の数字は、東本願寺真宗聖典の頁数です。 本文(1) どうもみなさんご苦労様でした。先回は本山の安居の仕事でどうしてもこちらの方へ来ることができませんでしたので、お許しをいただいたようなことであります。今日と四月ですか。二回お約束しておりますので寄せていただいてお聞きをいただこうと思っておることであります。それで今ほどもおっしゃいましたが今日のテーマは御利益ということになっております。 この一連の聞法会はですね、正信と迷信という、今日は、問題それでそのことで少しお聞きをいただいて、またみなさん方から色々ご意見、お尋ね等々お聞きできれば大変ありがたく思っておりますので、最後までよろしくお願いをいたします。それでこの御利益ということを申しますとですね、みなさん方もイメージされることと思いますけれども、はっきり言えば、現世利益ということですね。この世の利益。そのこの世の利益を追求することが宗教である、信仰である、そういう風に一般に思われておるということがあるわけであります。 それで今日の混迷した宗教状況というものを思いますと、この問題がどうでも一つ注目されなければならん問題としてあるということが感ぜられるのであります。どこへ参りましても、御利益、御利益でね。それこそまことにやかましいことであります。これを信ずればこれこれの利益がある、これを頼めばこれこれの幸せが得られるという調子で、ほんとに現世利益花盛りと言いましょうかね。そんな感じがするわけであります。そういう状況の中で、私があちらこちらでみなさん方とお話し合いしておりまして、そこでお聞きするご意見と言ったらいいと思うんですが、お声としましてね、端的にこういうことが先ず一つ注目されるんですね。現在の今日の宗教状況は今申し上げたような有り様なんであるが、じゃあそういう中にあって、この親鸞聖人の浄土真宗は現世利益を説くのか、説かないのか、これ一つはっきり言って欲しい、そういう非常に端的なご発言に接することしばしばなんであります。みなさん方も同感というか、そういうお方も多かろうかとも思いますけれども。 そういうご発言をいただきますと、わたくしは躊躇することなく、「はい。浄土真宗は現世利益を説きます。はっきり言い切れることでありますよ」と、そう申し上げるわけであります。ところがそこでわたしたちが注意しなきゃならんことは、現世利益を説きますけれども、利益は利益でも、『大無量寿経』にみなさん方もよくご存知だと思うんですけれども、お釈迦さまがこの世にお生まれになった目的を述べるところにね、「真実の利」(8)という言葉が出ておるんですね。これは名高い言葉であるんですけれども。「真実の利をもってせんと欲してなり」(8)と。つまりお釈迦さまがこの世にお生まれになってお説きくださった事柄というのはすべての人に真実の利益を与えたいからだ、こう言い切ってらっしゃるわけなんですね。ですから、これは明々白々といいましょうか。真実の利益を説くのが浄土真宗であるいうことでありますね。 といたしますとそこで先に申し上げておりますけども、二つ目といたしましてね、そうすれば、先程も言ってましたように、今日、世の中に溢れておる所謂、御利益教ですね。これを信じたらこれこれの息災延命、家内安全、商売繁盛という調子でね、所謂、御利益教が溢れておるわけですけども。「じゃあ浄土真宗はその御利益教を切るのですか」と。これも躊躇することはさらさらございません。「切ります。所謂、御利益教は切ります」。ということは、要は私たちの我欲を追求するというそういう教えというものでありますから、真実の利益を説く浄土真宗はそういった教えを切ります、切り捨てます。 ところが、利益を求めて止まない私の心、人間の心、これは切り捨てません。どこまでも寄り添うて目覚めさせる。これが浄土真宗が大悲の教えと言われるお心なんでありますね。この三点です。だからこの御利益という問題が掲げられますと、最小限わたくしはこの三つの点が一つはっきりと見定められねばならんのではないかと、そんなことを日頃感じておるわけであります。 それで今一言ずつ申し上げましたけれども、それぞれが大変な意味をはらんでおるということは申すまでもないことで。どの一つを取り上げてみても、そのことを詳しく吟味するということになると、ほんとにいかほど吟味しても吟味し尽くせるというような質のものでないと言った方がいいかと思うんですけど。そういう質の事柄ですね。そこで、そういうことを承知の上で、今、改めて要点をみなさん方にちょっと申し上げていきたいわけなんですけども。 この世の利益を説くと。真宗は。お念仏は。けれども、真実の利益を説くのだということですね。じゃあ、そんな真実の利益って何ですか。これは大変な問題でありますね。だからそのことを吟味いたしますについては、色々手続きはございますけども、みなさん方が日頃、読んだり聞いたりなさっておる親しいところから申しますと、わたくしは『歎異抄』の第七条ですね。特に短い一条ですけれども。「念仏者は、無碍の一道なり」(629)。あれで始まる一条ですね。ですから真実の利益ってどんな利益なんだ。今の『歎異抄』の言葉から言えば、まさに「無碍の一道」に立つこと、「無碍の一道」を歩む身とならせられる、それが真実の利益。簡潔に言えばそう言っていいと思いますね。じゃあ、そんなら「無碍の一道って何ですか」と次の問題になるわけですけども。その点はみなさん方が日頃色々お聞きになり、お読みになったりしておるところでしょうから、改めてここでわたくしが申すこともないように思うんで、一つみなさん方で「無碍の一道」、無碍ってのはさわりなしと書いてございますね。さわりなき一道に立たしめられることが、我々の生活の場でどういうことであるのか。これは一つみなさん方お一人お一人が、自らの課題として聴聞をしていただきたいと思うことでございます。 ただ一言申し上げておきますけど、無碍は今言いましたように、さわりなしと書いてございますね。そうすると、さわりごとがなくなることなのかと。不都合な事柄がなくなることなのかと。さわりになるものが消えることなのか、なくなることなのか。ではないんですね、この無碍は。御和讃にございます、今ほどもお勤めしました御和讃にあったようにですね、「一切の有碍にさわりなし」です。ここですね。「一切の有碍にさわりなし」(479)。さわりがないことになるんじゃないんですね。一切の有碍にさわりなき一道に立たしめられる。すごいことですね。だからそこにはもう一つ言葉としてだしときますとね、さわりが転ずるということなんですね。転ずる。だからこの浄土真宗の救いということは、色々表現もちろんされるんですけども、一文字で表すということになったらね、わたくしはこの「転」の字、これを何か、いの一番に申し上げたいですね。転ずるということなんですね。さわりが功徳と転ずる。親鸞聖人のこの御和讃を繰り読みなさってる方はご承知ですね。高僧和讃の曇鸞和讃ですね。あそこに名高い一首が出てきますね。「罪障功徳の体となる」(493)という御和讃ですね。罪障ってのは罪、障りと書いてあります。罪障が功徳の体となると申すんですね。「罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし」。みなさん読んでられると思いますけども。まさに御和讃が告げておるおこころだと言っていいかと思いますね。今、それだけちょっと申し添えときますから。方向としてね。真実の利益、無碍の一道だ。 といたしますと、必然的にこの二番目の問題が出てくるんですね。世の中は様々な御利益教が溢れておる、そういう御利益教を親鸞聖人の浄土真宗においてはどう扱うのか、どう言うのか、明らかに切り捨てると。捨てるということですね。切るということなんですね。ところがですね、そこでの大きな問題というのは、なぜ切るのかということです。そのことがここでは一番大きな問題だと思うんですね。二番目のところでは、なぜかということなんです。というのは、これはこの前、最初の時に寄せてもらって、みなさん方に一言申し上げたと思うんですけども。わたくしこれもあちこちでお聞きするご発言することの一つなんですけども、何で浄土真宗はこの世の幸せを祈るということを嫌うのかと。つまり、切るわけですね。人間としてこの世に生まれた以上ね、この世の幸せを願わない人なんているんですかと。この世に生まれてこの世に生きる限りね、この世の幸せを追い求める願うってのが、いいとか悪いとかじゃなくて、人間の自然の姿じゃないですかと。なぜそれを浄土真宗の教えは切るということを鋭く言うのですか。そういう真に迫った御発言も時々お聞きするんですけども、本当にそうだと思いますね。ごもっともなご発言だと思うんですね。人間なら家内安全、息災延命、商売繁盛、誰でも願う、これが自然じゃないかと。なぜそれを切るのかと。 そういう勢いがとっても大事ですね。極端な言い方すると、親鸞聖人に食ってかかるということですわ。みなさん方もそういう姿勢はとっても大事だと思いますよ。こういう会ならこういう会へね、呼びかけられたから時間をこしらえて出てきたと。先程、組長さんがおっしゃったことは大変大事なことだと思いますね。時間をこしらえてご縁に遇うということです。ところが、今の話で、人間ならばみんなそういうことを願って生きとるわけですわ。なぜ切るのか。親鸞聖人に一つね、反抗というかね、手向かうということ、それが大事です。だからみなさん方時間をこしらえてね、来て下さって、みなさん何を聞いてもさようでございますか、ありがとうございました、分かっても分からんでも首だけ振って帰って行くと。そういうのはですね、何十年やっとったって仏法なんて分からしませんに。親鸞聖人に食ってかかる、そういう人の感覚を養うということが、わたくしは仏法が早く分かる道だと思う。そことっても大事なんですね。だから難しい話じゃないんですよ。みなさん方がご無理、ごもっともでね、納得しようと、納得した風をなさるというのはその方が難しいのでね。自分の自然な気持ちをぶつけるわけですから。そうじゃないですか。息災延命を願わない人ってありますか、この世に。おりますか。何でそれを切るんですか、教えの言葉で言いますと、雑行雑修、自力のこころをふりすてるっちゅうわけでね。雑行雑修として切り捨てるわけです。なんでや。そういうことです。そういうこといっぺんみなさん方じっくりお考えいただくとありがたいと思うんですね。だからその意味ではあんまり早く分からん方がいいんですよ。だからわたくし自身、お育てをいただいてきておりまして、それを感じますね。早分かりするってのが一番だめ、これ。だから今日は結構なお話を聞かせていただいてありがとうございましたという質問よくくるんだけど、わたくしはそういうこと聞いても全然信用せんね。「あ〜、この人も〜」と思うわね。何かこう、考え込むというかね、何かちょっと様子が違うな〜とかね、何か不穏な雰囲気をね、漂わせてくださる方があるとすると、とってもこの人は脈があるな〜と内心思ってるんですよ。そんなこと言うことが分からんちゅう人があるけども、まあよろしいわ。 それで、なぜ切るのかということですね。これはずばり罪だからです。罪だから認めないんです。ところがそう言われるとまだそこで大きな壁がございますね。罪ということが今日分からなくなったんですわ。これはもう現代の状況において罪ということ言われたって全然ピンと来ません。まあ、われわれの生活感覚で言うと、法律に抵触するようなことをして警察に引っ張られて色々云々される、そういうことが罪やということぐらいでしょうね。だからわたくしはそんなことせんのやから全然わたくしに関係ない。罪という話を聞いたってよそ事でしかないんですね。そういうのが今日の状況です。時代はそこまできとりますから。けど、この罪ということがすっごく出てくるわけですわね。これ一つほんとに大きな問題だと思います。それで今一言申し上げておきますことは、さっきまで申し上げておいたことからするとね、さっき転ずるということを言いましたですわね。転ずるという人の事柄が、わたしたちの体験としてね、どういう姿というか、模様を取るのかって言ったら、罪ということが知らされるっていうことだと思うんですね。今まで罪なんて考えたこともない、思ったこともない、そんなものはよそ事だと、わたしに関係のない話だと、そう思い込んでいたのが、ほんとにわたしは罪人だったんだな〜ということが初めて知らされる。その一点において、転ずるということが、そこに起こるというか、成り立つ。そう言ってよかろうと思うんですね。だから罪ということが明らかになることです。けど今申しておりますように、現代は罪が分からなくなった。罪が分からなくなったからそれだけに。ここで一つ、いわゆる現世の幸福を追求する、現世利益を追求する、そういう在り方が人間としての罪だということに気付かせられることなんですね。で、この点が一番、私たちの日頃の聞法の上でですね、何かはっきりしてないというか、何かもうぼけてしまってるっていいますかね、そういう感じがいたしますけど。これはほんとに肝心要の事柄ですわ、これ。なぜ切るのかということですね。 それで、先へ進みます。そうすると、教えは切ると。それはわたしにとって罪以外の何者でもないからだと。こう言われる。だがです。だが、いわゆる御利益を求めて止まないわたしのこころは見捨てないということです。教えは切る、その教えにね、関わるっていうことは切る。けれど、願わずにおれないわたしたちのこころを切り捨てたらもうもともこもなくなります。手がかりがなくなってしまいますね。ということはそうでしょう。わたしの中にそういう祈るこころがあるってなもんじゃないでしょう。この世の幸せを祈る、それがわたしそのものなんだと。そう言えますね。まさに体質ですわ。だから、わたしのこころの一部分としてそういうものがあるってなもんじゃないわけでしょう。わたしそのものなんですね。だから、求めて止まないわたしのこころを切り捨てたらもうそれ、縁も手がかりも絶えてしまいます。ですからお念仏の教えっていうのは大悲の本願ていうのはね、どこまでもそういうわたくしの体質に寄り添うて罪だということに気付かせてくださるんですね。わたしたちが仏法を聞くちゅうことはそのまま南無阿弥陀仏がわたくしの上にはたらき続けていってくださるってことなんすね。つまり如来のご苦労ってことですよ。そういう形でわたしたちは真実の利益というものに目覚めさせていただくのだと。こういう道筋なんですね。 それでですね、そのことを今ひとつ、今日お越しいただいてね、ご確認いただきたいと思いますのは、親鸞聖人の御和讃ということを申しておりますけども、この御和讃の中にですね、現世利益和讃というのがあるんですね。このことをちょっと今申し上げたことをご確認いただく手がかりとしてお聞きをいただきたいと思うんです。『真宗聖典』を持っていらっしゃる方は、四八七頁をお開きになると、現世利益和讃というのが十五首詠われております。さっきも言ってましたけども、みなさん方毎日ですね、お朝事、お夕事をなさると思うんですけども、その時に御和讃を繰り読みなさいます、手がかりですね。同朋奉讃式でほとんど棒読みでお読みいただいて、毎日これを順次いただくといつとはなしに何か一つ教えがね、身に付いてくるということがあるんじゃないかと思うんですが。四八七頁を見ますと、現世利益和讃というのが十五首。これもですね、よくお話し合いの場で出るんですけども、親鸞聖人の純なる教えといいますかね、純粋な教えにおいてね、現世利益という言葉はどうも違和感を感じますね〜ということがよく出ますけど。確かにそうですね。そういうものが私たちにございます。けども、先程来から言っておりますとおり、真実の利益という意味においてね、現世利益があると説くということは、御和讃を見れば明々白々なんでありますが。 現世利益和讃、十五首ございますけども、今一々申し上げることももちろんできませんけども、初めの二首ですね、「阿弥陀如来来化して 息災延命のためにとて 金光明の寿量品 ときおきたまえるみのりなり」。「山家の伝教大師は 国土人民をあわれみて 七難消滅の誦文には 南無阿弥陀仏をとなうべし」(487)。最初の二首ございますけど、この初めの二首はですね、端的に申し上げると、親鸞聖人がこの現世利益和讃をね、お詠いになった立場。この現世利益和讃をお作りになった聖人のお立場。そのことが詠われておる。そういう風に言えるかと思うんですね。 そしてあとの十三ですね。第三首から十五首までの十三首ですけども。この十三首はまさにこの現世利益を説くわけです。お説きになってで、その現世利益というものがですね、内容的に三つあげることができると思うんですね。つまり、第三と第四でありますけども、「一切の功徳にすぐれたる 南無阿弥陀仏をとなうれば 三世の重障みなながら かならず転じて軽微なり」第四首「南無阿弥陀仏をとなうれば この世の利益きわもなし 流転輪廻のつみきえて 定業中夭のぞこりぬ」(487)。この二首というのはですね、全く言葉にも表れておりましたけれども、息災延命の利益ですね。息災延命の利益を詠っていらっしゃる。いうことが言えることでございます。 そしてその第五首からですね、第十二首までです。これは八つございます、八首。その八首というのはですね、何かって言うと、我々はもろもろの神々に神祇です、神祇に守られるという御利益を詠ってらっしゃるんですね。でそれが十五首の中で八首までがこの利益なんです。だから、いかにこの神々の問題が親鸞聖人においても深いご関心であったかということが窺われるわけでありますが。わたくしは日頃、神々の問題が一つこの親鸞聖人のお念仏の教えをね、明らかにする大事な一つのてがかりだっていうことを感じておりましてね、よくみなさんに申し上げることなんでありますけども、今そこへ踏み込んでおれませんけども、ともかく八百万の神々からわれわれは守られるという御利益があるんだということを八つ詠ってらっしゃる。 そして最後の三首、これは仏、菩薩のお守りをいただくのだという。仏、菩薩のお守りという御利益ですね。つまりこの三つなんですよ。息災延命の利益ともろもろの神々に守られるという御利益と仏、菩薩方に守られるという御利益とこの三つの御利益が詠われとるんですね。そしてこの三つの御利益をお詠いになる現世利益和讃。どうして親鸞聖人がお作りになったのかというお立場。それが最初の二首で詠われておる。そういう風に申し上げてよろしいと思うんですね。 それで面倒なことはもう言いませんが、じゃあ最初の二首なんですけども、そこちょっとだけ一言だけ聞いていただきたいんですけども、第一首はもう一篇読みます。「阿弥陀如来来化して 息災延命のためにとて 金光明の寿量品 ときおきたまえるみのりなり」(487)これを意訳なさってあるもので読みますと言うと、「仏の寿が無量であることを説く『金光明経』の寿量品は阿弥陀如来がこの世に現れて人々を憐れみ、息災延命の利益を与え、国家を安穏ならしめるために説きおきたもうたみ教えである」。こんな風に意訳されておるのでありますけども。 それでですね、このことでみなさん方もお感じくださるかもしれませんが、日本に仏教が受け入れられたっていうのは聖徳太子の時ですね。ところが仏教が受け入れられたはいいんですけれども、実際人々にね、どういう形で受け止められたか、つまり人々が積極的にね、それを受け取ったか、受納したか。いうことを申しますと、実は現世利益なんですね。現世利益の教えとして仏教を受け入れたというのがこれが事実なんですね。 そしてその現世利益の中でも特にこれなんですね。これは日本の歴史を見ますというと、必ず出てくることですが、鎮護国家。国家を鎮護するというこの鎮護国家ていうことがこの現世利益の最も焦点になったわけなんですね。そしてこの鎮護国家のために、経典を読誦すると。その経典を読誦する経典が鎮護国家の三部経ということがですね、言われるわけでございますけども。その鎮護国家の三部経っていうのは、みなさん方よくお聞きになっておる通りなんでありますけども。『法華経』、『仁王経』、そしてこの『金光明経』。これが鎮護国家の三部経と言われてきたわけなんですね。それくらい読誦されたわけです。 この鎮護国家、現世利益ですね。だから仏教ってものがその意味では全く国家に奉仕するものというね、そういう形で民衆に受け入れられたという、そういうことが一つある。これは大変な問題なんですね。今そういうことにも立ち入っておれませんけども、そういうことで今私が言いたいことは、ともかく仏教が受け入れられたその当初の在り方ってものはそんな仏道を求むるとかね、もちろんそういう方もおられたに違いないけども、主としてはそういうもんじゃない。この世の利益を追求するそういう一つの言わば外国からのね、新しい一つの誦術として、受け入れたってのがこれが実体なんであります。だから日本の仏教って言ったら先ず現世利益、鎮護国家の仏教、これが先ず指摘されるのはそういう事柄でございますね。 ところが今、親鸞聖人はですね、話端折りますけども、この御和讃で言わんとしてらっしゃることは何かって言ったら、その現世利益を追求する教えとして受け入れられてきた仏教の歴史というものをね、阿弥陀の本願念仏の教えに集約してこられた、統一してこられたってことなんですね。そして本当にこの世の利益を願うのならば、本当に息災延命を願うならば、阿弥陀の本願に会わせていただきましょうと、これなんですね。だから、そういう歴史の事実というものをこれ一つね、受けて、その歴史を本願念仏のこの教えの開顕のところへ集約してこられた。だから、本当の御利益が欲しかったら、法然よきひと、ね。法然上人によって明らかにされた専修念仏のこの本願の教えに遇わせていただきましょう。だからこの『金光明経』の寿量品は人々の息災延命をお告げくださってる経文ではないか。真実の息災延命をわたしたちに促してくださっとるのではないか。これはまあ、ものすごいことだと思いますね。日本の仏教の歴史というものを阿弥陀の本願のところにね、収めてきて、この一首を詠って、そしてその二首目ですね。 山家の伝教大師。言うまでもなく、この比叡山、天台宗を開かれた御開山、伝教大師でございますね。この比叡山と言えば日本仏教の母国ということが言われますけれども。ですからその意味からすれば、伝教大師は日本の大乗仏教のお釈迦さまである、祖である、と讃嘆されておるほどなんでありますけども。そういう伝教大師をあげてね、その伝教大師の事歴をあげて、今、本願念仏の教えに収めてこられたお心を詠ってらっしゃるんですね。どういう事歴かと言いますと、伝教大師が国土人民を哀れみて、その辺の意訳を見ますと、「叡山の伝教大師は国土人民の災難を憐れんで、七難消滅護国頌には念仏を称えよと勧められた。七難消滅の誦文には南無阿弥陀仏をとなうべし」日本の大乗仏教の祖である伝教大師も「南無阿弥陀仏をとなうべし」と。七難消滅の誦文には、やはり現世の利益にはなむあみだぶを称えよとお勧めくださっておるではないか。こう言っておられるんですね。だからその第一首は現世利益和讃を詠われる根拠、第二首目はその伝統というかね、歴史を簡潔に示されておる。そんな風に見ることができると思うんですね。 ここで一言添えますことは、七難消滅の誦文には、とこうありますね。この誦文はこの呪文じゃございませんですからね。この呪じゃないんですね。御和讃を御覧なると分かりますけども、この誦文なんですね。するとこの七難消滅っていうこの言葉は、伝教大師の御著作にね、七難消滅護国頌というものが書かれておるんですね。その中に南無阿弥陀仏をとなえよということを勧めていらっしゃると。こういうことで「七難消滅の誦文には 南無阿弥陀仏をとなうべし」。ほんとにこれは恐れ入るばかりでありますけども。親鸞聖人があの、こうした形でこの現世利益和讃を言わば、作ってこられるわけですね。伝え表してこられるわけです。 そしてもう一言申しますと、これですね。また一遍みなさんおうちに帰られましたら、現世利益和讃十五首を通読してください。そうしますとですね、平面的にね、そのさっきわたくし申し上げましたけども、三つの御利益があと詠われてくると言いましたね。それがただ平面的に横に並べられておるってなそういうものじゃなくてね、これはどう見ても縦ということを思うんですね。深められていく。だから最初七難消滅っていうそういう言葉、あるいは息災延命という言葉、そういう言葉で表されてくる。そのことが純化されていくっていうか、濾過されていきましてね、で最後には何かって言うと、仏菩薩のお守りをいただくというその真実の利益ていうそのことをはっきり言葉になさっておるわけですね。 たとえばその極まりは第十四首だといつも注意させられるんですけども。「無碍光仏のひかりには 無数の阿弥陀ましまして 化仏おのおのことごとく 真実信心をまもるなり」(488)。これはほんとに意外ですね。われわれは守られるといいますとね、息災延命、七難消滅ってなことから表れてもおりますけども。自分の都合を守ってもらうっていうそういう観念でしょ。体質ですからね。ところが今のこの御和讃にははっきりともうそれが言葉にしてありますね。真実信心を守るなりです。わたしの都合を守ってくださるんではないんですね。「真実信心をまもるなり」。ここにその「真実の利をもってせんと欲してなり」とさっき申し上げましたことが、ずばりその核心が言葉にされておると、そういう感銘をいただくことでありますけども。 ですから親鸞聖人がこういう現世利益和讃を詠われてきたということはさっき申しておりました通り、決してね、現世利益は卑しい話だ、あるいはそういう教えってのは低級な教えなんだていう御態度ではないんです。そんなこと言ったらむしろ傲慢じゃないですか。申しております通り、この世に生まれてきたらこの世の幸せを祈らずにはおれないってのは我です。その事実ってものを親鸞聖人はしっかりと踏まえてらっしゃいますね。で、そういう生き方しかできない私たち。だからそこでいかに私たちが、どういいますかね、自らも損ない、他をも損なう「自損損他のとが、のがれがたく」(761)と蓮如さんおっしゃいますけども。そういう生き方を繰り返してきておるか。その言わば、わたしたちのどろどろの生き方ですね。そこをしっかりと踏まえたところで、それだからこそ真実のこの光に遇わさせていただかなければわたしたちのまことの生き方は開かれない。それが親鸞聖人のお心ですね。 だからこの現世利益和讃は先ず、どろどろのところから始まっとると、そう言っていいと思うんですよ。「息災延命のためにとて」そういうところから始まるわけです。そして最後には「真実信心を守るなり」と極まるわけですね。浅きから深きへと掘り下がる、純化されていく、だからわたくしはこの十五首の御和讃を見ますとね、そのまま直接的に言うと、親鸞聖人ご自身の求道の深まりを詠ってらっしゃるんじゃないかなと感じますね。そうですわ。ほんとにこう一歩一歩深められて行く。だからこの現世利益和讃が歴史的に言えばさっきから言うように日本の仏教の歴史というもののほんとに終着点てものをおっしゃるわけだけども。その日本仏教の歴史のおさまってくるその過程というものはそのまま親鸞聖人ご自身の聞法求道の課程でなかったのか。ということはそのまま今日のわたしたち一人一人の歩みの深まり、道行きを表してくださっとるんじゃないかな。そんなことをわたくしは感じるわけでございます。 ですから、そういう意味ではわたくしは現世利益和讃っていうのはですね、是非みなさん方に読んでいただきたい、味わっていただきたい、そういうことを強く申し上げたいわけでございます。あの問題ですのでね、このことを一言どうでもおききいただいておきたいと思ったわけでございます。 それでもう一つ御和讃の上で留意しなければならんものといたしまして、これはもう繰り返し繰り返し詠われとるんですね。「南無阿弥陀仏をとなうれば」とあります。このことが現世利益和讃十五首のいのちと言ってよかろうかと思いますね。そのことを後半にもう少し申し上げたいと思うわけですけども。ちょっと休憩させていただきます。 本文(2) それではもうしばらくお聞きをいただいて、お聞かせいただければと思います。何か面倒な話になってったようで申し訳ないと思うんですけども。御利益という問題で、一言是非聞いておいていただきたいと思いましたのでこういう話になったんですけども。それで今一言っていうのは現世利益和讃ですね。一貫して繰り返されておりますことは、「南無阿弥陀仏をとなうれば」。これ、読み方のことですけども、字を見ますと「なむあみだぶつをとなうれば」と、「となうれば」と書いてあります。こうありますからそのようにお読みになる方が多いんですけども、間違いじゃないんですけど。ずっと前々からの読み癖としては「なむあみだぶをとのおれば」とですね。そりゃちょっと。そうするとここで一言申し上げたいことはみなさん方、この「なむあみだぶをとのおれば」という言葉を見られるとどんな風に意味をお取りになるかということです。「なむあみだぶをとのおれば」。恐らくみなさん方、「あ、そうか。なむあみあぶをとなえたならば、となえれば。そういう意味なんだな」と恐らく思われると思うんですね。ですからここが一つはっきりしないんですね。こういう仮定法ではないんです。なむあみだぶをとのおれば、なむあみだぶを称えたならば、称えれば、という仮定法じゃないんですね。事実を言うわけです。つまり親鸞聖人はなむあみだぶつと口に現れておるこのなむあみだぶつを聞いていらっしゃる事実をいうわけです。なむあみだぶをとのおれば。事実。それを称名念仏というもののお心でしょ。だから大体、称名念仏ということがはっきりしてないということがこの読み方に現れてると思うんですけども。 みなさん方、称名念仏ということをどんな風に思ってらっしゃるのか、これも一つ大問題なんでありますけども。今一言だけわたくしが申し上げるっていうのは、称名念仏というのは本質から言いますと、名号を称するということですから、念仏申すということは、わたしの称え物じゃないんですね。わたしの称え物じゃないってことは私有化することが許されない南無阿弥陀仏なのだっということを表す意味でね。ですからそりゃ何だって言ったら、称名念仏っていうのは仏の喚び声なんです。南無阿弥陀仏という称名念仏は一口で言ったら如来の喚び声なんですね。これが称名念仏の本義でございます。 これが分からんと面白いことありませんし、一生懸命、珠数を擦りながらなむあみだぶ、なむあみだぶってやってる人があるわね。たまにみますけども。そこまで汚染されておるわけですけども。わたくしそのことで憶念しておることがありましてよく申し上げることの一つですからみなさん方も聞いて下さっとる方があるかもしれませんけど。わたくし桑名の人間なんですけども、わたくしの子どもの頃なんで随分昔の話なんですけども。非常に突飛なお方がおりましてね。おばあさんっていうそういう年配の女性ですね。非常に聞法をなさった方です。そのおばあさんに会いますといつでも口が動いとるんですね。口が動いとるんです。つまり、お念仏してらっしゃるんです。ところがそのおばあさんはお念仏を称えているとか、称えさせてもらっているとか、お念仏を称えましょうとか、そういうことは一切言ったことがない。わたくしは聞いたことはない、そういう人でした。どう言ってらっしゃるかと言ったら。口が動いとるでしょ。これが「呼んどっておくれる、呼んどっておくれる」、こればっかりでしたわ。桑名の方言ですけど、呼んどっておくれる、呼んどっておくれる。でもこの自分の口をこういう風にして、呼んどっておくれる、呼んどっておくれる、呼んどっておくれる。あの一言がわたくしは強烈に残っとるんですけどね。今思い返しますと、ほんとに確かな仏法の受け止め方をなさってた方なんだなと思います。 話のついでですけど、みなさん方桑名には御用がないかもしれんけど。桑名に来て下さると桑名の駅前にタクシーがおります。そのタクシーに三交タクシーってのがあるんですね。あの三交タクシーってのは元は米?タクシーって言った。つまり、お米やさんをしてみえた人がああいうお仕事を始められたんですね。だから屋号で米?って。米?きタクシーだった。それがここ20年くらいになりますかね。三重交通、三交と合併しまして今三交タクシーになってるんですけども。この米?タクシーの商売を始めた人の奥さんなんですわ。そのおばあさんってのはね。柿沢さんっていう。ほんとに仏法者だったと思いますね。呼んどっておくれる、呼んどっておくれる。毎日それしかあのおばあさんは言葉がなかたんじゃないかと思うほどなんですけどね。だから称名念仏ってのはわたしのとなえものじゃない。呼んどっておくれる。わたしのここまで来て呼んどってくださる。それは驚きなんですね。それを信心っていうんね。だから親鸞聖人が「南無阿弥陀仏をとなうれば」とおっしゃるでしょ。この口に来てくださっておる、呼んでおってくださる、この南無阿弥陀仏を聞いておる事実ですね。だから称名は聞名って言うんです。称名はそのまま聞名です。名号を聞くっていうことですね。名号を聞く。つまり、ここに呼んでくださっておるこの声を聞くっていうことなんですね。だからお念仏をわたくしする限りは「南無阿弥陀仏をとなうれば」っていう言葉は読めません。 『歎異抄』の第八条、これはもうみなさん空んじておられるでしょうけどね。「念仏は行者のために、非行非善なり」(629)という言葉があるでしょ。行に非ず、善に非ずですわ。わたしたちこれがわからんのですね。お念仏はわたしにとって行であり、善である。わたしの助かる行であり、わたしの助かる善である。みなこう思っておるわけです。ところが親鸞聖人は「念仏は行者のためには、行に非ず、善に非ず」。だからほんとにねえ、藤原鉄乗さんじゃなけども、『歎異抄』が読めるかと言われるのもほんとにごもっともだと思うんですね。この一言が読めないんですわ、わたしたちは。みんなわたしの行、わたしの善と言うとるでしょ。わたしの具え物にしとるわけでしょ。それを許さないんですね。非行非善です。ということは何かって言ったら、南無阿弥陀仏ってのは言葉になった仏。つまり言葉以上のものが言葉になった、それが南無阿弥陀仏ですね。ところがその南無阿弥陀仏は何かって言ったら、最初から申し上げて来ました通り、いわゆる我欲追求で欲望の満足を追い求めるその生き方しか知らないわたしの無明をはっきりと無明と照らし破ってくださる仏様ですね、生き仏様。それが南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏は口へ現れて来てくださっとる。その名号を聞くっていうこと以外に何もないですね。「南無阿弥陀仏をとなうれば」です。ほんとわたくしを呼んでくださっておる南無阿弥陀仏を聞かせていただく時、「南無阿弥陀仏をとなうれば この世の利益きわもなし」と。だからほんとに自分の無明がね、破られる体験の核心がここにあらわれとるわけですね。だからお念仏っていうのは仏様、如来の呼びかけ、だから本願の呼びかけですわ。それみんなわたくししてるんですね。 で、座談会してると面白いこと言う人がある。「は〜、そうですか。念仏くらいならいつでも称えとるんですけどね」っちゅう人があるで。念仏くらいならや。それでは問題以前ですね。そんな念仏に思っていた我が、そうでしょ、念仏は行者のためには非行非善だっていうこの一言で飛び上がるがね。「は〜、念仏をわたくししとったんだな〜」。だからどこまでも南無阿弥陀仏はわたくしの無明の闇そのものを照らし破ってくださる仏そのものです。 そういうことを一点お心にとどめてください。ほんとに「南無阿弥陀仏をとなうれば」。だからその意味で浄土真宗っていうのは一口で言ったら「南無阿弥陀仏をとなうれば」、そんだけの教えですわ。簡単というか、単純の極まりなんですね。浄土真宗の教え聞くと難しいです、わからんですって。みんな通る道ですけど。そりゃ一応ごもっともなんだけど。単純の極まりはこんだけですわ。「南無阿弥陀仏をとなうれば」、いつでもそこに救いが開かれてくる。だから称名念仏っていうのは、聞き物なんですね、わたしにとっては。称名念仏っていうことは聞き物なんです。聞き物や。聞名ですから。どこにある声明ですか。この口にまで名告って来てくださっておる生き仏を聞くだけなんです。だから、それこそわたしの様なものに如来様が来てくださっておったんやな、その驚き、それだけです。これが分からんとわたくしたちは、いわゆるこの世の御利益を追求する生き方しかできません。そこなんか感じていただけるでしょうか。 大変くどいようですけども。今、申し上げようとしたことはその一言なんでありますけども。ですから、最初の時に、この前、寄せてもらった時に申し上げたと思うんですけども。ほんとにお念仏の仏法、これが明らかになる手続きはね、この世の利益を求めて止まないわたくし。このわたくしがはっきりと見極められるっていうことの他には道は開ける方法ないと思うんですね。だから浄土真宗はこの世の利益を求める教えとは違う。後生の一大事やってなことまた出てきますけどね。そんなことでみんな思ってらっしゃるってことがあるんだけど、違うんですね。現世を祈らずには生きられないわたくしが、徹底してそこへ一つね、そのことを見極めさせていただく、その智慧が後世を祈るという生き方なんですわね。だからこの世のことは棚に上げといて未来のことをって。そんなもんじゃありません。全然話が違いますからね。だからどうか現世の利益っていう問題はその意味でわたくしはとっても大事なことだと思いますね。 さっきも休憩時間に組長さんからそんな話も出てましたけど。いわゆる霊の問題ですね。オカルトの問題。そういうものが若い人にもてはやされてるっていうかね。そういうことはあるようでありますけども。みんなわたしたちの闇がほんとにこう照らし出されるつまり言えば、わたくしのそういう闇を徹底して気付かせる、そういう教えに遇わない限りはその問題は到底気が付きませんからね。 ですからそこへ参りますといつも言うことですけども、結局親鸞聖人のお念仏の教えに遇うっていうことはね、何が人間を目覚めされるもんか、何が人間を逆に眠らせるものか。真実なるものと偽りなるものとの区別ですね。それが一つはっきり見極めていく智慧の眼をいただくことですね。そういうことになります。この現世利益の問題もまさにそのことだと思いますね。それが明らかにならんというと、どこまでわたしたちは迷い込んでいくか測り知れません。 それは何も個人の胸の中の問題だけじゃなくて今日の時代社会というか、国家社会というか、そういう問題に至りますまでがみなそのことに関わってきます。自坊のことで恐縮ですけども、どこのお寺もそういうことをなさっておるわけですけども。わたくしのところも大晦日は除夜の鐘を突きます。たくさんみなさんが突きに来てくださるんで、数は数えんことにしておるんです。突いてもらえるだけ突いてもらうということにしとるんです。夜の11時半ごろから突き始めましてね、1時間半くらいかかって鳴り続いてますわ。そして午前1時から修正会をそのまま勤めるんですね。正信偈、六首引、お勤めをするんですね。その後、総代さんに毎年順番ですけれども、年頭の感話ってのをしてもらいます。それから住職がその次に法話をします。わたくしは今住職じゃございませんのでね。3年前に子どもに住職を譲りましたのでわたくしは前住職であります。住職が法話をした後、最後に前住職も一言しゃべれということですから、年頭の言葉をお話しするということをここ3年ほど、そういう形でやっとるんですけども。年頭の辞でわたくしが今年みなさんに申し上げたのはこの言葉なんです。掲示伝道にも書いたんですけどもね。「戦争は戦争の顔をして来ない」この一言を年頭の言葉とさせてもらったんです。これはね、みなさん方お読みになった方はご記憶にあるかもしれませんが、これはわたくしが発案したとかそういうことじゃございません。これは中日新聞の社説で読んだ言葉なんです。去年の10月ごろだったと思うんですけどね。社説で読みましてとってもわたくし印象に残ったんです。戦争は戦争の顔をして来ない。だからこれをわたしは年頭の言葉にしました。そしたら門徒さんがどんな顔して来るんですかって聞く人がおるから、わたくしは端的に言ったのは、美しい国作りという形で来ますねと。ピンと来る人があったかなかったかはしりませんけど。卑近なこと言ったら金色夜叉なんですね。今の若い人に金色夜叉なんて言ってもピンと来んのですけども。夜叉が夜叉で現れれば誰もだまされないわけでしょ。金色の装いをしてくるからみな引っ掛かるわけです。戦争が戦争の顔をして来ればよけますけども。そうじゃないでしょ。こないだも新聞でどきっとしたんですけどね。総理がついに欧州の軍事機構でしょ。もちろんアメリカが中心のNATOの本部へ出かけていってですね、何を言ってられるかって言ったら。これで日本も自衛隊を派遣することに躊躇いたしませんということを言うとるんですよ。まだ憲法を全然どうもしてないのにそんなことを総理が口走るということは何事ぞやと、わたくしはほんとに腹が立ったことなんですけども。だからわたしどもの世代はいいでしょうけども、早ければ子ども、孫の時代になったら徴兵制で赤紙が来るんじゃないですか。そうですよ。 ところがね、わたくし作家の中では、好きなって言うとご無礼なんですけども。高村薫って人がおられる。女性の方ですわ。二八組だから、昭和28年お生まれですね。だからお年が分かるんですけども。ちょっと耳にしたところでは、大阪のお西のお寺のお嬢さんということを聞いたことがあるんですけども。それはともかくとしてね。この方、直木賞作家なんですけども、作品もさることながら、わたくしがこの人に魅せられるのは評論なんですよ。ほんとにあちこちで、新聞、雑誌、テレビ等々で評論活動なさっておるんですけども。とってもわたしは引きつけられるんで。高村薫さんの文章は極力読むようにしておるんですけどもね。 去年の12月の末でしたか、これは毎日新聞でね、特集をしておりますところで高村薫さんがインタビューを受けておられたんですけども。その中で高村さんが言っておられましたけどもね。今人々、民衆が怒らない。とんでもないことを政府がやっとるんだけども憤らない。そういうことを話しておられるんですけど。ほんとにそうですね。目の前の便利、快適、豊、そのことに目が眩んでしまって、国家100年の大計が全然考えられない。こんな恐ろしいことはないと思いますね。恐らくこれで国民投票の法案が通るだろうと思いますね。単独採決でも通りますから。そうすると憲法改正っていう方にどんどんどんどん進んで行くわけですね。外国で多国籍軍と、言葉はいいですわね、共同で世界の平和と安定のために戦うっていうわけですから。もう国外で戦争ができる日本の国にするわけですね。そうすると、戦死なさるのは日本の国民、自衛隊なら自衛隊の方がなくなるってことでしょ。ですからみなさん方もそこは一つ、しっかりと目を開かなきゃならん。そりゃやっぱり「南無阿弥陀仏をとなうれば」っていう印ですわ。幸い今年は国政選挙がある年です。どうかみなさん方しっかりそこは一つ目覚めて投票してください。わたくしはね、自坊でこういうことよく言うんですけど。わたしは自民党でもありません、共産党でもありませんってこう言うんです。んならあんた何派やって言うから真宗大谷派であります。そうですわ。 つまりね、わたしの気持ちをもう一つ言わせてもらうとね、こういう選びの問題はね、四五寸の白道なんですわ。四五寸の白道は勇気と決断ですわ。だからわたしたちは選挙であれ何であれ、いつでも四五寸の白道を選ぶんです。真実の道を選ぶんです。だから真実の道を選ぶには勇気と決断ですわ。そういうことが真宗門徒はほんとにだめやって、わたくしは自己批判を込めて申し上げるんですけどね。なんまいだ、なんまいだって仏法聞いとるんだけども、全然そこらははっきりしてないってことは、信心の眼がはっきりしてないていうことですわ。だからどうか一つ目覚めてください。目覚めてくださいってことは、四五寸の白道に目覚めてください。今言いました御和讃でいいますと、「南無阿弥陀仏をとなうれば」。ここに一つ立ってください。わたくしは叫びたいですね。今年の元旦は自坊でそんなことを言わしてもらっとったんですけども、ほんとにそう思います。どうも時間になってしまいました。 (テープ起し協力:西尾市安楽寺 伊奈 潔 氏)