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法話:浄土真宗は報恩宗

浄土真宗は報恩宗
恵林寺 釋 淳生(荒山淳)

自坊恵林寺の報恩講のあと、精進落としの席で、総代のTさんが「じゅんちゃんは、いつもお父さんや、お母さんのこと大事にしてみえる?」と聞いてこられました。僕は一瞬たじろいで「ええ、大事にしてますよ」と答えました。それに対して、Tさんは間髪入れず、私の目を観ながら、にっこり微笑んで「ワッハッハ、それは、嘘だわ」と応じられました。

大事にしているという、傲慢な思いこそ、本当は、何も大事になんかしていないのだと言い当てられ、慚愧(ざんぎ)に堪えない思いがしました。

じつは、そのことを親鸞聖人は

たまたま行信(ぎょうしん)を獲(え)ば、遠く宿縁(しゅくえん)を慶(よろこ)べ

と教えていて下さいます。

念仏の教えに聞くことは、日ごろの生活の中で気付きもしなかった自分自身が、「解ったつもりでいたけれど自分のことを何も知らなかった」いう事実に帰せしめられることをいうのです。この自覚を得るということは、「自分は一人では生まれてくることも生きることもできなかった。今まで縁のあった人々に支えられ、生かしめられてきた。しかしそのことを一番遠くにしか感ずることのできない自分だった」と気付くことだったのです。

この「遠く」は距離の遠くでもなく、時間的な過去の遠くでもありません。他者(ひと)にしてもらったことを忘却の彼方(かなた)へ押し流して 「ケロッ」としていることを指摘している言葉なのです。

自分自身、病気をせず、何事もなく無事に生活していることを、ややもすると当たり前にし、感動も感慨もなく日々を過ごしています。その日々の生活の中には、私を、そのように無事にあらしめ、隙間なく私を支え続けている御縁(ごえん)の、偉大な用(はたら)きがあるのです。その用(はたら)きを忘れ果て、自分のしたことは何一つ忘れないでいる私。なのに、他者(ひと)にしてもらったことは、全部わすれてしまっている私。

一番遠くに感じている「当たり前」のことを「貴きこと」として一番近くに受け止めなおす、何でも当たり前にしてしまう人間の理性を転じて佛の智慧をいただきなおす、そういう生き方を浄土真宗というのではありますまいか。


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