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法話:「金剛の真心をもって最要となせり」(『教行信証』「化土巻」)

「金剛の真心をもって最要となせり」(『教行信証』「化土巻」)
晃照寺 釋 正信(八神正信)

先日、あるご婦人から
「このごろPTAの講演会に出席しても、なかなかよかったなぁ!と思えないのはどうしてでしょうか。」という質問をうけました。PTAの会合に出席しても感動が出来ず、何か求めようとしているのに何も得られないというご婦人の気持ちが身にひびき何か切実な気持ちにさせられました。

常に真面目に真剣に生活している者にとっては、必ず、こういう疑問が起こってくるものではないでしょうか。

誰でも知らず知らず、日常生活の中で、こうした疑問をもつことがありますが、たまたま、PTAの講演会の内容はともかくとしても、無感動の世界のただ中に、今、われわれは立たされているという現代を切実に傷まずにはおられない気がいたします。

このご婦人の疑問は、すべての人にとっての問題として考えねばならないのではないでしょうか。

PTAの講演が、豊富な視野とか、整然とした組み立てをもったものであっても、理知の立場から話される説得性では、せまってくるものはないということが思われるのです。

このご婦人の疑問のうちに、現代の理知的立場を否定し拒絶するものがあるということを知らされるのです。

しかし、その内面には感動のある世界を求めつづけてやまない願心のはたらきを感ずるのであります。

このご婦人からの問題をもって、『観無量寿経』にたずねますとき、その中に説かれています韋提希夫人の人生に対する絶望感の内面に、本願の世界を求める心が、すでに芽ばえていることを見出されておられるのが釈尊であります。またその求道心こそ、金剛の真心・真実信心である、賜った心であるとたたえられたのが親鸞聖人であります。

一人のご婦人の疑問からすべての人の内面には願いをもち、その願いが満たされることを求めつづけている存在であることを改めて知らされるのであります。


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