キリスト教の聖書、イスラム教のコーランに相当する仏教の教典は「お経」と日本では通称されている。しかし聖書やコーランは、正典(教団・教会によって公に認められ,信仰・教義・生活に規準を与える書物。カノン=canon,kanono)として一冊の書物になっているのに対し、仏教には「この一冊」という正典はない。
キリスト教と同様、仏教でも開祖が著述したのではなく、その教えや行跡が長い間口伝されていた。しかし仏教では早い時期に教団が分裂して別々に口伝されたという事情、また大乗仏教で釈尊に仮託して次々に経典が創作されていったという事情から、その数が膨大になり、一人の人間が一生かかっても読み切れないくらいになっている。
この典籍群をさして大蔵経(一切経)という。しかしそれは仏教の正典というわけにはいかない。つまり、世界全仏教徒から「たしかに釈尊の教え」と承認をうけてはいないのである。たしかにパーリ仏典はかなりの程度釈尊の教えを再現しているが、その由来からすれば一部派の所伝に過ぎず、これをもって正典とすることは大乗仏教からは認められないだろう。このような膨大な典籍群からどの教典が釈尊の真意により近いかを判定するのを「教相判釈」といい、中国で盛んに行われ、宗派ごとに「所依の経典」が定められることとなった。あえていえば、仏教では教団の数だけ正典があることになる。例えば、私の所属する真宗大谷派では『真宗聖典』があり、これが大谷派の聖書・正典ということになっている。しかし、全仏教を通じての正典は存在しない、といえる。
現在、実際に生きている、仏教徒によって読まれている大蔵経を大別すると、次の三種類がある。
これは単に言語による分類ではなく、地域と信仰・教義傾向による分類でもある。すなわち、上座部仏教ではパーリ大蔵経、チベット仏教ではチベット大蔵経、大乗仏教では漢訳大蔵経が用いられている。日本仏教ではもちろん漢訳大蔵経を基盤としているが、最近はパーリ聖典も読まれるようになっている。
大蔵経を分類するのに、三蔵(tipitaka, tripitako)という分類もある。蔵とは籠・容れ物という意味で、
の三つから成り立つ。
釈尊滅後、原始教団は上座部と大衆部の二つに根本分裂し、さらにその後20ほどの部派に枝葉分裂した。そして経と律はそれぞれの部派ごとに伝承され論が製作されたので、それぞれの部派がそれぞれの大蔵経をもっていたことになる。インドで仏教が滅亡したため、それら部派ごとの大蔵経も大部分が散逸してしまったが、唯一、スリランカに伝えられ生き残った〈南方上座部(分別説部)〉が伝承するパーリ聖典がすなわちパーリ大蔵経である。
南方上座部の公式の立場では、パーリ大蔵経の経と律とは、釈尊滅後すぐに開催された第一回結集(けつじゅう)において編集決定されたものと同一であることになっているが、学問上は疑わしい。仏滅後300〜400年後に、現在のテキストの原形が成立したというのが妥当であろう。
パーリ聖典の経蔵(Sutta Pitaka)は、次の五部に分けられ、ニカーヤ(Nikāya)と称される。ニカーヤとは部門の意味である。
有名な「ダンマパダ」「ウダーナ」「スッタニパータ」「テーラガータ」「ジャータカ」は小部に属し、釈尊の最期を伝える「マハーパリニッバーナスッタンタ」は長部に属する。
なお、漢訳の阿含経はかなりの部分がパーリ経蔵と共通しているが、経の種類や数も違い、類似の経も内容には細かな違いがある。例えば、「ダンマパダ」は漢訳では「法句経」に相当するが、偈の配列も違い、内容も全く同一ではない。つまり、漢訳阿含経は南方上座部に伝えられたパーリ経蔵の翻訳ではなく、説一切有部など複数の部派に伝わった経を翻訳したものである。これはつまり、部派に口伝で伝承されているうちに、だんだんと付加削除が生じてきた結果としての差異であり、どちらが古いかということはいえない。むしろ部分的には、漢訳阿含経のほうがより古い形態を残している場合もある。
パーリ聖典の律蔵(Vinaya Pitaka)は大きく二部に別れ、「経分別」には比丘と比丘尼に対する戒とそれに違反した場合の罰則規定が、「犍度」には教団の運営規定などを述べる。論蔵(Abhidhamma Pitaka)には七論が収録されている。
聖典書写が行われたのは紀元前一世紀頃スリランカにおいてであるが、以後、多くの蔵外の注釈書、綱要書、史書等が作られた。19世紀末ロンドンにパーリ聖典協会(Pāli Text Society)が設立されて原典の校訂出版等がなされ、日本では若干の蔵外文献も含めて『南伝大蔵経』65巻(1935-41)に完訳されている。
その後、1951年にはビルマのヤンゴンで第六結集(仏典編纂会議)が開かれ、54巻の三蔵と数十巻の注釈書が編集された。現在出版されている、あるいは近年に出版されたパーリ聖典はこれを底本とすることが多く、日本語訳は大蔵出版より順次刊行されている最中である(つまり日本語訳パーリ大蔵経は二種類ある)。また、CD-ROMでも何種類か出ているが、最新のものはローマ字のほかビルマ・タイ・デーバナーガリー・シンハラ文字などでも打ち出しが出来る。
7世紀、ソンツェン・ガンポ王の命令で、聖典のチベット語訳は、トンミサンボータによって始められ、13世紀ころには大蔵経が開板された。チベット大蔵経は
からなり、前者は律蔵と経蔵、後者は論蔵であり、前者には1000あまりの経が、後者には3500あまりの論が収録され、漢訳大蔵経に匹敵するくらいの量をもつ。その中に、大乗の経・論、ことに原典も漢訳も現存しないインド後期仏教の文献が多く含まれており、インド後期仏教の研究にも重要な意味をもっている。チベット語訳はサンスクリットの逐語訳に近く、原形に還元しやすいので、原典のない漢訳経典の原型を探るためにも重要視されている。
チベット大蔵経は幾度も開板され、18世紀のデルゲ版、ナルタン版、北京版などが重要だが、北京版以外は若干の欠損がある。北京版のマイクロフィルムからは影印本が日本から出版されている。『影印北京版西蔵大蔵経』全168巻(1955-61年、鈴木学術財団)がそれであるが、大学図書館で見ることができるくらいだろう。デルゲ版の方は、台北から72巻本として出版されている他、高野山大学図書館では影印がCDに保存されている。
近年、アメリカを中心とした「アジア古典入力プロジェクト」(ACIP)が、長年の努力の成果として、チベット大蔵経の多くをCD-ROMとインターネットで公開している。
なお、チベット仏教というと密教のイメージが強いが、本来は顕教であり、学問仏教でもある。とりわけインドで仏教が迫害されるようになってから、多くの学僧がチベットに渡った。794年の「サムイェーの宗論」では中観派のインド僧カマラシーラが中国の禅僧摩訶衍を論破して以来、チベットでは中観派が正統とされ、ダライラマが属するゲルク派は中観派のツォンカパを宗祖としている。
中国における聖典漢訳事業は2世紀後半から始まり、11世紀末までほぼ間断なく継続された。原典(サンスクリット版)はほとんど散逸しているが、一部は中央アジアやネパールなどから発見されている。
漢訳事業の進行に伴い、訳経の収集や分類、経典の真偽の判別が必要となり、4世紀末には道安によって『綜理衆経目録』が、6世紀初めには僧祐によって『出三蔵記集』が作成された。これらの三蔵を、北朝で「一切経」と呼び、南朝で「大蔵経」と呼んだ。 隋・唐時代にも多くの仏典目録が編纂されたが、最も重要なのは730年に完成した智昇撰『開元釈教録』20巻である。ここでは、南北朝以来の経典分類法を踏襲して大乗の三蔵と小乗の三蔵および聖賢集伝とに三大別し、そのうち大乗経典を般若 、宝積 、大集 、華厳 、涅槃 の五大部としたうえで、大蔵経に編入すべき仏典の総数を5048巻と決定した。ここに収載された5048巻の経律論は、それ以後の大蔵経(一切経)の基準となった。
木版印刷による最初の大蔵経は、宋の太祖・太宗の両朝、971年から983年にかけて蜀で印刷出版された。これは「蜀版大蔵経」と呼ばれ、毎行14字詰の巻子本の形式であった。これは宋朝の功徳事業で、西夏、高麗、日本などの近隣諸国に贈与された。983年に入宋した東大寺僧の「然(ちようねん)は、新撰の大蔵経481函5048巻と新訳経典40巻などを下賜され、日本に持ち帰った。
高麗では、11世紀前半に覆刻版を出し、その版木が元軍による兵火で焼失すると、13世紀中葉には再雕本を完成させた。今も海印寺に板木を収蔵する再雕本の「高麗大蔵経」は、最良のテキストとして高く評価されている。南宋から明代にかけても各地で大蔵経の作成が続いたが、明末に新しい形式の袋綴じ本の「万暦版大蔵経」が出版された。
日本では、735年玄ム(げんぼう)が将来した五千余巻は、当時の欽定大蔵経と推定される。平安時代末から鎌倉時代にかけては、栄西、重源、慶政その他の入宋僧の努力で、『宋版一切経』が輸入された。以後、『寛永寺版(天海版)』『黄檗版一切経』『縮刷大蔵経』『卍字蔵経』『大日本続蔵経』が作られた。
世界における仏教界や仏教研究に寄与したのは、高楠順次郎・渡辺海旭監修の『 大正新脩大蔵経』100巻である。高麗海印寺本を底本として諸本と校合、1924年から34年にいたる歳月を費やし、正蔵(55巻)、続蔵(30巻)、昭和法宝目録(3巻)、図像部(12巻)を収める。
漢訳経典の日本語訳も行われ、『国訳大蔵経』『国訳一切経』『昭和新修国訳大蔵経』などがある。
以下のような構成になっている。(Vol.は巻数を、No.は経典に付された通し番号を表す)
<経蔵>
阿含部:Vol.1-2/No.1-151
本縁部:Vol.3-4/No.152-219
般若部:Vol.5-8/No.220-261
法華部:Vol.9/No.262-277
華厳部:Vol.9-10/No.278-309
宝積部:Vol.11-12/No.310-373
涅槃部:Vol.12/No.374-396
大集部:Vol.13/No.397-424
経集部:Vol.14-17/No.425-847
密教部:Vol.18-21/No.848-1420
<律蔵>
律部:Vol.22-24/No.1421-1504
<論蔵>
釈経論部:Vol.25-26/No.1505-1535
毘曇部:Vol.26-29/No.1536-1563
中観部:Vol.30/No.1564-1578
瑜伽部:Vol.30-31/No.1579-1627
論集部:Vol.32/No.1628-1692
<中国撰述の部>
経疏部:Vol.33-39/No.1693-1803
律疏部:Vol.40/No.1804-1815
論疏部:Vol.40-44/No.1816-1850
諸宗部:Vol.45-48/No.1851-2025
史伝部:Vol.49-52/No.2026-2120
事彙部:Vol.53-54/No.2121-2136
外教部:Vol.54/No.2137-2144
目録部:Vol.55/No.2145-2184
<日本撰述の部>
続経疏部:Vol.56-61/No.2185-2245
続律疏部:Vol.62/No.2246-2248
続論疏部:Vol.63-70/No.2249-2295
続諸宗部:Vol.70-84/No.2296-2700
悉曇部:Vol.84/No.2701-2731
<由来不明のもの>
古逸部・疑似部:Vol.85/No.2732-2920
<その他>
図像部:Vol.86-97
昭和法宝総目録:Vol.98-100
なお、日本では「お経」というと漠然と漢文で書かれた聖教を意味することがあるが、本来の経(sutra, sutta, sutro)は、釈尊が説かれた教えを弟子の阿難が記憶し、それを第一結集で読誦した(と信じられている)もののみを指す。論は、インドにおいて菩薩といわれる人の著述であり、中国人や日本人の著述は、いかに高僧のものであっても論とはいわず、釈や疏とよぶ。その意味では、『大正新脩大蔵経』において本来の三蔵は第32巻までである。
『大正新脩大蔵経』は、現在電子データベース化が進んでおり、SAT(大正新脩大蔵経テキストデータベース)のホームページ
<http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~sat/>からダウンロードや検索ができる。たとえば、『般若心経』を自分のパソコンで読んだり印刷したい場合、上記URLにアクセスして、ダウンロードサービスをクリックし、キーワードを入力する。『般若心経』というのは俗称であり、正式には『般若波羅蜜多心経』という。この経題をキーワードにすると、12件がヒットするが、そのうち5つは中国撰述の疏であり、7つが経である(これはNo.を見ればわかる)。つまり、『般若心経』の漢訳は7回、別々の訳者によってなされていることがわかる。(ちなみに、「般若心経」をキーワードにすれば5件がヒットするが、いずれも疏である。)
めあての経典のNo.が見つかれば、それをダウンロードできる。これはテキストファイルなので、どのパソコン環境でも読める。実際に利用するにあたっては、「技術情報」をよく読むことをおすすめしたい。
『大正新脩大蔵経』のダウンロードはCBETA(中華電子佛典協會)のホームページ
<http://ccbs.ntu.edu.tw/cbeta/>からもできる。外字処理法や文字コードなどで違いはあるものの、仕事としては同じ主旨のものと言える。 SATとCBETAは協力関係にある。中国語環境のパソコンからはこちらが便利。
『大正新脩大蔵経』版元の大蔵出版からは、CD-ROMも順次出ているが、まだ巻数も少なく、Macintoshでの利用はできないもようである。
聖典の電子データベース化については、高麗大蔵経やサンスクリット聖典、禅籍などのプロジェクトもあり、すべてを紹介しきれない。