法話:「不安に立つ」

「不安に立つ」
恵林寺 釋 淳生(荒山淳)

普遍なる仏法の繋がりを願って、このホームページが開設され、はや4年が経った。名古屋教区第30組30ヶ寺の関係者だけでなく、無縁の人々とも繋がる「僧侶によるリレー法話」も、教化スタッフ40名で一巡し、改めて広報の重要性と課題を感じたことである。

そのようななか昨年12月4日、名古屋東別院対面所において「いのちの日 いのちの時間 東海」と名づけられた自死遺族者の法要が勤められた。この法要は「自殺対策に取り組む僧侶の会」を中心に、名古屋教区教化センターを事務局にすえ、自殺問題に取り組む超宗派の有志僧侶がネットワークをつくり実行委員会形式で営まれたものである。

年間3万人を超す自死者と、突然の死を煩悶しつつ受け止めきれずにいる遺族に、身を添わせるよう細心の注意(遺族は顔を見られたくないであろうからマスコミは一切シャットアウト等)をもって法要は営まれた。

そして法要の後、茶(談)話会で語られた、自死遺族の心の中に抱えておられる一言ひとことに、厳しい現実を聞いた。

それは通夜など法要の場で、故人を偲ぶこととは関係のないことで、遺族の心は埋め尽くされている現実である。具体的にいえば、左右向かい合わせの親族席は、常に他者から見られていることが大変苦痛であるとか、立礼挨拶の緊張と身体的苦痛などである。また、すがる思いで聴く法話に「自殺は悪いこと」、「自殺は身勝手な行動」、「地獄に堕ちる」などの発言によって、ずたずたに傷つく、あるいは全く意味のわからぬ言葉「倶会一処」「堪忍土」「無碍光」などの専門用語(初めて聞く人にとっては隠語である)で不安を募らせてしまう現実があるということである。

その中でも特に注視したのは「一日いちにちを大切に生きよう」ということばで傷ついたという発言があった。どうしてこの言葉によって苦痛が増すのか、はなはだ疑問に思った。

その方がおっしゃるには、「連れ合いは、一日たりとも無意味に無駄に人生を生きたことなどありませんでした。人生を大切に生きた結果、自死という死を選んだのです。生きることは、そんなにも苦しいものなのです。そのことを一人ひとりが受け止めなければならないのではないでしょうか。」ということであった。

自死は、個人(特別な人)だけの問題ではない。また社会だけの問題(制度が悪い等)でもない。「われら」苦悩を抱え生きる、すべての人間に共通する生死の問題として真摯にとらえることを、しずかに語られる、そのことばの響きにかんじたことであった。