精進について 光圓寺 釋 慧順(川合幸宏) |
仏教の言葉で、一般で用いられている間に、その意味が段々誤られてきたものの一つに「精進」という語があります。世間では「魚肉を用いず、野菜を食べる」ことが即ち、精進だと考えている様です。この様に考えることも全然間違った解釈ではないけれど本当の意味は、決してそうではありません。
精進の解釈
では、精進というのはどういう意味かと言うと、『新仏教辞典』(中村元監修)には、
「梵語のヴィーリア(virya)という語の訳であって、大乗仏教の実践徳目である「六波羅蜜」の第四番目にあるもの、善を行ない、悪を断つ努力を継続的に行うことを言う。後には魚鳥獣の肉を食わないことを言うようになった。」
とあります。
元来、精進の「精」というのは「無雑の義」といって、精選、精白などと用いられて、純粋な美を表わす語です。ちょうど原米の皮をはぎとって中身の潔白な米とするのを精米といいますが、これが精進の「精」です。
精進の「進」は進化、進歩などの語がありますが、絶え間なく励むことで、懈怠(けたい、なまけること)の反対語です。
ですから「精進」というのは「余念を雑(まじ)えず、善を修し懈怠なく向上してゆく」というのが本当の意味です。
大無量寿経に、
勇猛精進にして志願倦(う)むことなく、智慧、勇猛にして神通自在ならむ。(聖典P27)
寿命甚だ得がたし、仏を亦もう値い難し。人信、慧あること難し。もし聞かば精進して求めよ。(聖典P50)
宜しく各々勤めて、精進して、努力して自らこれを求むべし。(聖典P57)
等として示されてあるのは、全くこの心を表わしているものです。
では何故、食物の節制が即ち精進だと考えるようになったというと、廃悪修善の仏のみおしえを実現しようとすれば俗塵を去って仏門に身を投げ込み、潔斎して修行に専念するのが最も都合が良い、がそうなると修行者の最も苦痛となるのは食物です。仏の定められた食事には、もちろん肉類などの臭いすら嗅ぐことが出来ない。そこで仏道を精進するには、菜食をせねばならない事から段々、義が転じて、食事に節制を加えることにより、好きな魚鳥の肉を食べず、菜食でこらえることが即ち精進だと考えるようになったようです。
念仏者の精進
真宗の信心は「如来の仰せに順うのみで、出離の為に自己の努力は少しも要らない」ということを親鸞聖人は身をもって立証せられました。では真宗に全然精進の必要はないのでしょうか。
「実悟記」にこれを示して
「祖師の御命日、又御仏事中、盆三ヶ日、彼岸一七日の御客人、昔よりの如く、精進のおんあしらいにて候、今もかくの如く、精進のおんあしらいにて候、今もかくの如く御入り候は、外聞はよく候」(註 「実悟記」 一巻。本願寺、蓮如の子、実悟の記)
等と示されています。
つまり信者は、この様な場合、報恩感謝を表わすものとして家族はもとより客人にすら菜食をもってせよと言われ、その流れが廃らないようにと願われています。
しかし「精進」ということは菜食をすることだと考えることは極端な、消極的な解釈である。本当の意味は最も進歩、努力的な向上方法を示すものです。