「幸せの形」 光圓寺 釋 彰宏(川合彰宏) |
先日「幸せになる方法」という本を道で配っているのを見ました。それはキリスト教関連のいわゆる自己啓発本と言われているものです。体験談を交えながらその方法を考えるためのものです。仏教においては「幸せになる方法」はさとりを開くということなのでしょうか。
本来、お釈迦様の後を慕って教えの通りに修行をしてさとりを開くことが仏教者としての道です。そのなかでさとりを求めて修行をできない者が凡夫と呼ばれています。しかし、真宗の教えではすべての者が同じ仏の身に成るという誓いによって、本来ならば仏になるはずのない凡夫が仏になることを保証されているのです。
歎異抄において親鸞聖人は凡夫を「いずれの行も及び難き身」と受け止めています。そこで、凡夫であるわれわれは「南無阿弥陀仏」という称名念仏ならば行うことができるのです。「南無阿弥陀仏」というのが真宗においての「幸せ」の形ではないでしょうか。
『大無量寿経』の中には、第18番目に
設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法
(たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。)
とあります。
「南無阿弥陀仏」と念仏をすることによって浄土へ往生することができると誓われています。お釈迦様の教えを通して仏教徒はさとりという「幸せ」を求めて修行していくのであり、阿弥陀仏が様々な形をとってわれわれに働きかけるのが浄土真宗の姿であるように思われます。