法話:「法事を勤める」
「法事を勤める」 大圓寺 釋 文生(大田文生) |
よく法事の席で「死んだ人にはお経が一番の供養だ」という声を耳にします。僧侶がお仏壇の前でお経を読む、それで供養は事足れりということなのでしょう。その人にとっては死者は仏壇に住み着いた亡霊であり、経典や念仏はその霊を慰める呪文という事なのです。
これが供養の中味だとすれば、その場にいる私達は供養するといっては、あるはずもない亡霊を造り出していることになってしまいます。
はたしてそれが供養するということなのでしょうか。
親鸞様のお言葉を伝えている『歎異抄』第五条には、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたることいまだそうらわず」とあります。親鸞聖人は父母の追善供養のために経文を読んだり念仏したことは一度もないとおっしゃっています。私達はこの否定のお言葉に接する時、逆に私達の念仏する心根というものが問われてきます。その問いかけとは、死んだ人間が問題なのではなく、生者であるこの私が死んでることが問題なのだということです。
私が死んでいるとは本尊を見失っているという事です。本尊とは教えという事です。私と教えとの正しい関係を見失うとき念仏は呪文となります。正しい関係とは、仏の教えを聞く者という本来あるべき位置に私が帰るという事です。本来の私が回復されるという事が起こる時、亡き人の位置も自(おのず)から決まり、私の思いを超えて供養という事も成就するのです。
亡き人は、私が教えを聞く縁であり、生者に対して教えを聞く人間となれと勧め励ます声なのです。私達はその声を聞く耳を持たねばなりません。