法話:「信仰」
「信仰」 願正寺 釋 明潤(長岡明潤) |
いつどこで誰がどんな風に殺されてしまうのか、全く想像もつかない時代になってしまいました。連日の様に犯罪のニュース、しかも、考えられないような恐ろしい内容のニュースにさらされ、感覚が麻痺し、「また聞きたくもない恐ろしいニュースか・・・・。犯人はなんて人間だ・・・・。」と一瞬、ため息をついてはみるものの、一日か二日たてばそのニュースはすぐに記憶から遠ざかっていってしまいます。しかし心の中にはそれらの犯罪の記憶が澱の様に沈殿し、心の底でよどみ、精神がじわじわと汚されていく・・・・。
曽我量深先生の、「言葉のいらぬ世界が仏の世界、言葉の必要なのが人間界、言葉の通じないのが今のこの世、まるで地獄界」というお言葉が思い浮かびます。
一方、「物」の宣伝を流し続けるテレビのCMや宣伝広告にもさらされ続けています。便利な物、楽しい物、刺激のある物、美味しい物、清潔な物・・・・。果たして本当に必要な物なのか?と疑問を感じながらも、やはりまた、「物」に執着するように精神が徐々に影響を受けていく・・・・。
ウェブサイトの中は、匿名性を持つ無責任な情報と誹謗中傷と暴力シーン、露骨な性描写であふれています。それらは閲覧する者の興味をそそる一方で、驚きと疑問と怒りと不安と落胆とを無制限に連続的に産み出し、最終的には「この社会は間違っているのでは・・・・。」という思いにたどり着かせたりもします。
一方、今、日本は大きな局面を迎えています。東日本大震災や原発事故からの復興もまだまだ先行きが不透明な中、集団的自衛権に関わり、日本本土の防衛以外で自衛隊が武力行使することを認める決定を政府が断行しようとしています。社会不安が増すばかりです。
このように、まさに時代の大きな大きな「マイナスの流れ」に抗うこともできずにいる「無力な自分」を感じ、今の社会に対して「言い知れぬ不安」を感じる人が非常に多いのではないでしょうか。
結局、矛盾ばかりの社会の中で「自分一人では何もできない」、「自分はどう生きたら良いのか分からない」という「不安を持つ人」がどんどん増えています。また、孤立感を抱え、人との接し方が未熟なまま、他人のちょっとした行為に我慢ができず、人の行いを許せないどころか「他人をひどく憎む人」もどんどん増えています。
そういう「苦悩する人間」を救うのが宗教です。「どう生きたらよいのか」と悩む人に真面目に何度でも答えるのが宗教です。神や仏と対峙するかのように自己を深く見つめさせ、改善点や変更すべき点を示唆し、生きる勇気を与えるのが信仰なのです。
信仰心を持つ人は苦悩から立ち上がることができます。自分の身勝手な思いから解き放たれるからです。
他との摩擦を、自分だけの独りよがりの正義を振りかざして大きな声や力で押さえ込もうとするのではなく、お互いに尊重しあい、お互いの命を大切にしながらわかり合おうとする宗教に仏教があります。仏教は自分の心を深く見つめていく中で苦悩を解決していく宗教です。
仏教への信仰(信心といいます)をいただけたなら、身の回りの風景が違ってくることでしょう。自分の身の回りいたるところで仏様を感じることができるからです。人々の顔つきが違ってきて、人の姿、行い、言葉に仏性を感じるのです。生きとし生くるものに優しい気持ちになれるのです。
ですが、信仰(信心)がある日突然心に入ってくるという人は少ないでしょう。毎週必ず教会に行く敬虔なクリスチャンや、日に何度も身を地にすりつけるイスラム教徒は、やはり、長い時間をかけて信仰心を持つのだと思います。
仏教もやはりお寺で聞法することの積み重ねで、釈尊や親鸞聖人の教えに何度も何度もうなづかされて、だんだんと徐々に仏教の教えへの納得が深まっていくのです。
日頃からお寺の聞法会に気軽に参加してみて下さい。親鸞聖人は、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人のためなり」とか、「本願力にあいぬれば空しく過ぐる人ぞなき」とおっしゃり、ご本尊の阿弥陀如来様の願いを大変有り難く受け止められました。
どうぞ、ご縁のあるお寺と深くつながり、不安を取り除き、生きる勇気を与えてくださる信仰(信心)をいただいてください。一度きりのかけがえのない人生に、深い大きな意義を感じることができることでしょう。