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第8期讃頌会研修会の報告

第1回(2014年4月4日)

今年度の讃頌会研修は「真宗と先祖供養」という年間テーマのもと、尾畑文正師(同朋大学前学長・三重県いなべ市 泉稱寺住職)を講師に迎え、3回の研修会と交流研修会の計4回の研修会が実施されます。

研修会第1回目は、2014年4月4日(金)午後2時から4時まで東別院会館(名古屋市中区橘・名古屋別院内)・2F 蓮の間において、36人の参加者を得て開催されました。

第1回研修会は「真宗にとって供養とはなにか」と題して講義が行なわれました。

講義の冒頭で尾畑先生は、本来仏教でいう「供養」という言葉の意味は「食物や衣服を仏法僧の三宝に供給する」ことで、私に真実を教えて頂いたことに対する供養という意味であるにもかかわらず、日本では死者や先祖に対す追善供養という意味で理解されていることに問題があることを指摘された。

仏教本来の「真実に対する供養」という意味で解釈すれば、供養する主体である私が真実に暗いという自己認識で、自分のあり方が問われることになるが、先祖に対する追善という意味で「供養」という言葉を理解すると、先祖は生きている我々に何か災いや祟りなどの不利益をもたらすかもしれない存在と理解していることになり、その結果亡き先祖への不信感の裏返しとして食物等をお供えしていることになる。これでは先祖を問いただすことになって、自分が問われることにならない。これでは仏教本来の願いに反することになるという指摘をされた。

その後我々日本人が「供養」という言葉をそのように理解するようになった背景として、中国の儒教や道教の影響が大きいと指摘され、儒教・道教と仏教の生死感の違いを指摘されながら問題点を掘り下げる講義が行なわれた。

講義終了後には質疑応答の時間があり、参加者から質問が出されたり、僧侶に対する注文が提起されるなど活発な議論が交わされ会は終了した。


第2回(2014年4月21日)

2013年度第2回の讃頌会研修会は、第1回同様「真宗と先祖供養」という年間テーマのもと尾畑文正師(同朋大学前学長・三重県いなべ市 泉稱寺住職)を講師に迎え、4月21日(月)午後2時から4時まで東別院会館(名古屋市中区橘・名古屋別院内)・2F 蓮の間において、34人の参加者を得て開催されました。

研修会は「私にとって先祖とはなんですか -相互共存する命-」と題して講演が行なわれました。

尾畑先生は講演で我々が「先祖」をどのように認識しているのかを最初に問題視にされ、先祖を祟りや災いをもたらすかもしれない者として認識するのか、真実なる世界に目覚めさせてくれる仏(諸仏)として認識するのかで宗教的には大きな違いがあることを最初に指摘されました。

その後(1)戦死者(2)交通事故遺族(3)ヘミンウェイの『誰が為に鐘が鳴る』の主人公の生き様(死に様)の3つの事例を紹介され、亡き人をどう認識するかによって死そのものの意味も大きく変わってしまう。親鸞聖人は親しい人の死という悲しい出来事を、悲みを否定するのではなく、悲しさをそのまま抱きかかえるところに平等な人間関係が生まれ、上下の関係ではない命の本当の結びつきが生まれることを教えておられると講演され、我々が普段考えている亡き人との人間関係と、親鸞聖人のそれとが大きく違っていることを考えてみる必要があるのではないかと指摘され講演は終了した。


第3回(2014年5月14日)

2013年度第3回の讃頌会研修会は、尾畑文正師(同朋大学前学長・三重県いなべ市 泉稱寺住職)を講師に迎え、5月14日(水)午後2時から4時まで東別院会館(名古屋市中区橘・名古屋別院内)・2F 蓮の間において、46人の参加者を得て開催されました。

「真宗と先祖供養」という年間テーマのもと、第3回研修会は「死んだら終いなのか -往生の意味を問う-」と題して講演が行なわれました。

尾畑先生は講演で「往生」とは「死」とイクオールの言葉だと一般的に認識されているが、『佛説無量寿経』(下巻・善悪段)を詳しく読むと仏の国に往き生まれる事を、「往生」として記述されていることを紹介なさった。また、親鸞聖人の『御消息集』(広本)には「明法御房の往生のこと、おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。」という記載があり、往生を「うれしく候ふ。」と言っていることから、親鸞聖人にとっては往生゠悲しい死という認識ではなく、積極的に捉えておられたことが伺えることを紹介し、死んだら終いになるような生のとらえ方ではなく、いのち終えて行かれた方々の生と死を善悪・上下の認識で捉えるのではなく、生も死も我々に何かを教えて下さっていると認識し、またその方を諸仏として捉え直していく歩みが求められていると指摘され講演は終了した。