推進員養成講座(2005.1から2005.7)の報告
推進員養成講座:主催者報告
名古屋教区第30組は2005年1月から7月までの7月間にわたり推進員養成講座を実施しました。推進員養成講座とは、親鸞聖人の教えの基礎的な学習を行い、住職と協力して聞法の会(同朋の会)の結成・充実を推進する担い手(推進員)を生み出すことを目的として実施される講座で、大谷派では全国的に推進している事業です。
当第30組では「お経さんに学んでみよう! -生きるよろこびをともに-」というテーマのもと、講師に四衢亮(よつつじ あきら)先生(高山教区第1組不遠寺住職)をお迎えし、92名の一般参加者の申し込みをいただき実施しました。
講座の実施形態は、1月から5月までは毎月1回土曜日の午後に地元名古屋において半日の講座を行い、7月には本山である京都・東本願寺において2泊3日の宿泊研修を実施しました。
学習は東本願寺出版部発刊の『現代の聖典』をテキストとして進められました。『現代の聖典』とは『仏説観無量寿経』の序文が掲載されているもので、釈尊が在世時に起こった「王舎城の悲劇」が描かれています。「王舎城の悲劇」とは王宮で起きた家庭内暴力の物語で、息子(王子)が父親(王)を殺してしまい、母親(王妃)までも牢獄に幽閉してしまうという事件が描かれており、その絶望的な状況の中で、お釈迦様との出遇いによって一人の女性(王妃)が阿弥陀仏の浄土に目覚め救われていくという物語です。王宮で暮らすみんなが家庭の平和を願い、国の安泰を願っているにもかかわらず、逆に家庭内に争いを起こし、国が乱れてしまう現実が描かれています。この物語を学ぶことを通して、人間の迷いや悩み、また不安や苦しみの本質をみつめ、そこからの解放を学んでいく学習が行われました。
推進員養成講座:参加者の感想
晃照寺 釋尼 智泉(木造澄子)
名古屋教区第30組で若い人達を対象に真宗入門講座が開かれると知りました。私には資格がないと思っていたら、お寺で、ご院様から誰でも参加できるからとお勧めいただきました。
毎朝、おつとめはしますが、お経の意味もほとんど分からず、ただお経をあげてから、家族が今日も1日無事に過ごせますようにと自分に都合のよいようにお願いばかりしますが、時にふと、これでよいのかと気になりながらも又、次の日もその繰り返しです。
浄土真宗のことやお経の教えなど少しでも知りたい、聞法をしたいと思う気持ちでいた時だったので、よいご縁だから、この機会に少しでも学ぼう、そして、落ちこぼれないで、とにかく前期だけでも全部参加することを決めました。
講座のテーマが「お経さんに学んでみよう」で講師の四衢先生の阿闍世の誕生から成長過程、頻婆娑羅王幽閉、韋提希夫人の裏切りを知り、幽閉、手に掛けようとするが思いとどまり、釈尊の慈悲ぶかい教えにふれて救われたことの説明を入門者にも分かりやすく講義していただきました。終了時は本当に充実感があって、これを機に、これからは出来るだけ聞法を続けようと思いましたが、なかなか実行できませんでした。
折角ご縁があって教えを受けた人達とは、これからも教えを聞きながら共に聞法の輪を広げていきたいと願っています。
一心寺 釋 賢良(濱田良三)
現代の聖典、観無量寿経より王舎城事件について勉強させていただきました。このような事件は現代の世にもよくあり得る事件。
ビンバシャラ王の生ざま、太子アジャセによって牢獄で自業自得の結果このようになったとわきまえて、釈尊の弟子の目蓮尊者に八戒授けてもらうように頼み、自分を律していました。釈尊も王様がもとめていないにも関わらず、富楼那尊者をつかわせて王に仏法を説くよう命じて、これは仏法の聞く事の大切さを表している。しかし、イダイケが監禁された今となっては、目蓮も富楼那も牢獄に入ることが出来なくなった。
この物語では、ビンバシャラ王もイダイケ夫人も被害者のように思われるが、危害を加えたアジャセこそ未生怨、折指と呼ばれた被害者ではないだろうか。この世に生を受け、本当に祝福されて生まれてきたか考え直すと、意外に未生怨、折指という問題をかかえて生まれてきた場合ではないだろうか。宮殿の奥に閉じ込められたイダイケ夫人は夫に食べ物を運べなくなり、ビンバシャラ王が心配するだろうと思うと不安になり自分もいつ死ぬ身かわからず初めて気がつき、イダイケは自ら来ていただいた釈尊を見て感謝するのでなく、地面にひれ伏して泣き叫びながら愚痴を言ってしまう。
真の仏との出遇いとは、自分の思っている事を全て出してしまう事は、懺悔する事によって、仏に出遇った事により号泣向仏になったと思われます。イダイケが阿弥陀仏の世界(浄土)に生まれたいと願っていることを意味している。阿弥陀仏の本願に触れることこそ、苦しみや悲しみを引き受けて法蔵菩薩と共に生きることが大切だと思います。イダイケは愚痴を言っても、どうにもならないことを知ったのだろう。
釈尊は浄土に生まれる方法として三福(散善)を説かれます。まず親孝行し、生き物を殺さない。イダイケ自身もアジャセを殺そうとしていた、よって悪人である。釈尊は五色の光によって初めて救われたのです。釈尊は、まず浄土に生まれるために三福を説かれる。三福とは(世福戒福行福)。
世福とは、親孝行や慈しみの心を持って生き物を殺さない善を尽くす。
戒福とは、仏法僧に帰依して戒律を守って心を正しく。
行福とは、仏になろうとする心を、物事には原因と結果のある事を信じ、大乗の経典を読んで、他の人々は仏道に入れる事を勧めることによって、浄土の姿を見たり歓喜の心がわく、不生不滅の道理が明らかになると説いている。諸仏如来のことによって、仏を見ることができると説いている。
とりとめのないことを長々と書きましたが、自分自身、仏法の三宝に帰依し、更に我身を教えにたずね、真宗門徒としての新たな自覚に立ち、願生浄土の道を歩みたいと思う。
また、本願寺では、御本尊そして宗祖親鸞聖人の御真影のおん前において、真宗門徒としての帰敬式を受け、仏弟子の名告りである法名を頂きました。
私達は、仏にお願いすることがなかなか止められません。
仏に感謝する事が十分にできません。
いつも迷惑を掛けないように一生懸命に生きたいと思っても出来ません。
そんな私達ですが、帰敬式を受けて、仏弟子の名を頂きました。そこで私達推進員としての自覚を持ち次のことを誓います。
一、勤行と正しいお内仏のお給仕を心掛けます。
一、お寺さんの行事には、家族誘い合って参加するようにします。
一、出会いを大切にし、手を取り合って浄土真宗の教えを学ぶ気持を持ち続けます。
この感激を忘れることなく、日々の生活によい生き方を願い続けたいと思います。
心が口を動かし、身を動かす。悪口を言うも、善いことを言うも心、身が悪い事をするも心、身がよいことをするのも心だと思う。
二泊三日の後期教習には、阿弥陀堂参拝、諸殿の拝観、夜の講義、帰敬式、法名伝達式、記念写真撮影、お内仏の学び、宣誓文作成、夕事の勤行には導師をを務めさせていただき、自分にとってはよい思い出、経験させていただき、一生忘れることはないでしょう。
最後の解散式、御影堂修復現場視察して、御影堂が再建された時代には、クレーンなどない時代、木材や瓦、又、普段見る事のできない、御影堂の屋根が、すべて瓦と葺土が降ろされ露わになった野地板や箱棟の様子が、よく解り、当時の職人の技には感心させられ視察を終る。