法話:御遠忌(ごえんき)と信心獲得(ぎゃくとく)

御遠忌(ごえんき)と信心獲得(ぎゃくとく)
正福寺 釋 元雄(成瀬元)

平成23年は、東本願寺にて親鸞聖人の750回御遠忌が勤まったが、昭和36年には、700回御遠忌があった。翌年から真宗大谷派では、同朋会運動が始まり、50年になろうとする。「真宗門徒一人もなし」「家の宗教から個の宗教へ」というテーマをかがげて運動を展開してきたが、現在は停滞ぎみである。また14年前には、蓮如上人の500回御遠忌が勤まったが、今回の御遠忌までの間にとりたてて成果はない。

御遠忌の意味は、いったいどこにあるのか。その手がかりとなる話しが蓮如上人の言葉の中にある。蓮如上人は、「一宗の繁昌と申すは、人の多くあつまり、威の大なる事にてはなく候。一人なりとも、人の信を取るが、一宗の繁昌に候。然れば、『専修正行の繁昌は、遺弟の念力より成ず』と、あそばされおかれ候」。(蓮如上人御一代記聞書第122条)と述べられている。報恩講などは、「人の信をとる」ことが目的となる。御遠忌も同様であろう。そこには、僧侶の信心獲得の必要がある。

信を取るには、一体どのようにしたらよいのか。その一点が最大の課題である。ところで、先日、私の自坊正福寺にて6月の聞法会を開催した。当日は、小雨のなか20人ほどの方がお見えになり、いつものようにテキストを使い、話し合いをもった。亀井鑛先生から50年前に始まった同朋会運動との自身のご縁をお聞きした。先生は「最初は、仏教なんか現代人にとって意味のないものであり、古代の遺物で仕方なく今の世に存在しているだけなんだ。」と考えていたが、旦那寺の住職の勧めによって同朋会運動に出会い、仏教の教えが生活に関わっていることを知ったと50年前の自身の仏法とのご縁をお話しされた。

その話を聞かれたAさん(10年ほどの聞法歴)が、「私は、この聞法会にくると、心がいらいらしてたまらなかったが、それでもここにこずにはおれない。そのいらいらは、自分を否定される教えなので私の心のうちで自分の我執の強さとの戦いとなり、私の我が砕かれていく過程であった。」と自身の聞法の歩みを話された。

信心獲得とは、自分の我執との戦いなのだ。自我との戦いが、聞法の中で大変困難なことであり、蓮如上人が「信をとれ」とおっしゃられた事なのである。すなわち、「聞即信(もんそくしん)による信心獲得である。