法話:適当

適当
法照寺 釋 寛義(橋本寛)

皆さんは、適当という言葉を聞いて、どう感じますでしょうか。私にとってこの言葉は、とても大切な言葉です。

15年前のことですが、私は、3年程会社勤めをしていました。そこで、営業の仕事をしていました。最初の1年間は、無我夢中でやっており、周りも新入社員ということで大きな目で見てくれていました。社員が30名程度の小さな会社でしたので、すぐに一人前として上司や、周りから厳しい目で見られるようになりました。

そういった中で、私も、早く一人前にならなければ、一人で何でもできるようにならなければという思いが強くなり、大変悩んだ時期がありました。その時、見かねた私の直属の上司である課長に、こういうことを言われました。「仕事は適当にすればいいんだよ」と。最初に聞いた時はどういう事だろうと思いました。今、私たちは、「適当」というと、手を抜くとか、いいかげんという意味でよく使っています。そこで、「適当でいいんですか」と聞きなおすと、課長は「適当とは、どういう字を書くか知っとるか。適当とは、適した当たりと書くんだ」と言われました。それを聞いて、はっ、とさせられました。そして、今の自分はどうであろう、自分の適した当たりとは何だろう、と自分自身に問いかけました。そうすると見えてくるのは、自分が、自分がという気持ちで、一人で何でもできるように、社長、部長、課長のように仕事が出来るようになろうと思っていても、それが思うようにできなくて悩んでいる自分でした。私には、社長、部長の様に経験も実績もありません。一緒の様にできるわけがないのです。そういった自分が見えてきました。

そして、最後に課長に「俺にも仕事させてくれ!」と言われました。仕事というのは自分だけでなく組織として、それぞれがそれぞれの役割を果たし、初めて成し遂げられるものだったのです。自分だけで生きているのではなかったということにあらためて気付かせてもらいました。

課長の「適当でいいんだよ」という言葉で、私は自分自身というものを見つめ直すご縁を頂くことができました。阿弥陀経にある「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」の様に、私たちは、一人ひとりがそれぞれに輝きを持っています。それなのに、本当の自分自身に気付かず、他と比較し、他の色になろうと迷っています。他と比較する心がいつも起きてくるのが、私たちの姿なのだと思います。

課長の言葉は、今でもなにか行き詰まった時思い浮かび、自分自身を見つめ直す機縁となっています。