法話:「いのち」

「いのち」
恵林寺 釋 研優(荒山優)

先日、テレビを点けるとある料理番組が流れていました。その番組の中で、料理人の方が言っていたある言葉に、私はとても驚かされました。どのような言葉かというと、「人が口から食べたものの栄養が、体のすみずみに行き渡るのには1ヶ月の時間がかかる」というものでした。

この言葉に私はこれまで自身が持っていた認識をくるりとひっくり返されたような思いがしました。なぜなら、私はこれまで「自分は、自分で自分のいのちを生きているのだ」と思っていたからです。しかし、そんな私の思いや意思に関わらず、私のいのちは今も1ヶ月後の未来を目指しているのです。ここに私は、「生きている」のではなく「生かされている」在り方を感じます。

私たちはいつも自分で自分を決めつけて生きているように思います。それは「自分はこんな人間だ」と決めつけ、時にはそれによって自分は無価値だと思い、自分のいのちの意味を見失うこともあるかもしれません。しかし、私達が私たちのいのちを決めつけ、願うのでなく、私たちのいのちが私たちを願っているのではないでしょうか。

親鸞聖人は、そのような、いのちそのものからの呼び掛けを「如来の本願力」とお示しになられ、そしてその呼び掛けに出遇ったのなら、もう人生が空しく過ぎていくことはないと言われています。辛いこと、悲しいこと、寂しいことが際限なく起こる人生の中で、そういった出来事にひとつずつ立ち止まりながら、いのちからの呼び掛けとの出遇いを仏教に尋ねて参りましょう。