何を依りどころとするか 教心寺 釋 眞弌(山口眞一) |
吾人の世に在るや、
必ず一つの完全なる立脚地
なかるべからず
清沢満之
正月は神社へ初詣、結婚式はキリスト教の教会で、葬式は仏教僧侶に読経してもらう、、、このように日本人の大多数は宗教的に無節操であると評されることがあリます。しかしこれに対して、「いいや、それは日本人が宗教的に寛容な証拠だから、それをとやかくいうのがむしろ了見が狭いのだ」という反論があリます。
私白身は、やはリ日本人の大多数は宗教的に無節操、あるいは宗教音痴なのだと思っています。宗教的寛容ということの正しい意昧は、別の宗教を信じる人を排除しない、ということです。「白分の信仰と彼の信仰は違っている。だけれども彼とは仲良くやっていける」という人が寛容なのです。あれもこれも、というのは寛容とは言いません。ダライラマ14世はいみじくも、「唯―神を信じる人は同時に仏教徒であることはできない」とおっしゃっています。
歴史的に言えば、日本は宗教的に寛容な国ではあリませんでした。私ども浄土真宗にとって一大事件であった「承元の法難」、これは専修念仏の教えに対してなされた大がかりな宗教弾圧でした。その後も、徳川幕府によるキリスト教弾圧、明洽維新政府による仏教弾圧、大本教への弾圧など、いくつも例を挙げることができます。
宗教とは「宗(むぬ)とする教(おしえ)」ということで、白分にとって何をいちばん大切なこととするか、という問題です。すなわち依って立つ場所が明らかになるということです。それは扇の要(かなめ)にもたとえられます。要がぐらついていると、扇はばらばらになってしまいます。