曇鸞大師・道綽禅師・善導大師 眺景寺 釋 竜哉(松平竜哉) |
今回は『正信念仏偈』に登場する中国三祖の伝記とそこから学んだことを書かせていただきます。
曇鸞大師は『大集経』という経典の注釈をされている最中に病に倒れ、大通年間に江南の道教茅山派開祖の陶弘景氏を訪ね、「仙経」10巻を入手しました。もっとも大師と道教の出会いはこれ以前からあったようで、出家のきっかけや執筆活動に影響を及ぼしたと伝えられています。
帰る途中の洛陽でインドの僧であります菩提流支法師と出会いました。法師は地に唾を吐くという侮辱の態度を示し自らが訳した『無量寿経優婆提舎願生偈』を手渡し、それを読むことを薦められました。
菩提流支法師の訳書を読み終えた曇鸞大師はその内容に感動し、「仙経」を焼き捨てて浄土の教えに帰依されました。
縁次第で生き方が変わるということですね。師友との出会いを大事にしたいものです。
曇鸞大師の碑文を読んで浄土教に帰依したと伝えられる道綽禅師は『仏説観無量寿経』の解釈書『安楽集』をあらわされ安楽浄土の往生を勧められました。84歳で命終されるのですが、何と70歳の時に新しい歯が生えたと伝えられています。
ある日のことでした。道綽禅師はお弟子の善導大師から「(1)仏像・経典を粗末に扱ったこと。(2)周囲の声を無視してご自身のお考えを強制すること。(3)造作のために虫の命を奪ったこと。」という三つの過ちを聞かされ、謝罪しご自身の態度を改められました。
三つの過ちは決して他人事でありません。気をつけたいものです。
生涯ご自身の功績を自慢されなかった善導大師はお寺の修繕作業や衣類の洗濯に至るまでご自身で行われたそうです。私にとって誠に耳の痛い話です。
女性を前にすると目をあげて見ることがなかったという話や最期は自ら命を絶とうとして死にきれず精神が不安定になり七転八倒した末に命終したという誤った記述が今でも見受けられます。20代の頃、私は何の疑問も持たずにこのお話を信じていました。
本当は女性に向かって法を説き、40代で自ら命を絶ったとされる年より20年後に龍門奉先寺で石窟造営を行い永隆2年に69歳で命終されています。