仏教の基礎:釈尊の生涯
3. 釈尊の生涯
3-5. 悪魔の誘惑
釈尊が苦行生活をしている6、7年間に、悪魔(マーラ)がさまざまな方法で妨げをなそうとしたことが、経典や仏伝文学に描かれています。マーラとは、「殺す者」という意味のサンスクリット語です。
3-5-1 悪魔ナムチ
最古の経典といわれる『スッタニパータ』(経集)では、ナムチという名の悪魔が登場します。
ネーランジャラー河の畔にあって、安穏を得るために、つとめ励み専心し、努力して瞑想していたわたくしに、(悪魔)ナムチはいたわりのことばを発しつつ近づいてきて、言った、(『スッタニパータ』より、中村元訳)「あなたは痩せていて、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供え物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。(苦行に)つとめはげんだところで、何になろうか。つとめはげむ道は、行きがたく、達しがたい。」この詩を唱えて、悪魔は目覚めた人(ブッダ)の側に立っていた。
悪魔というのは、どこでもそうですが、恐ろしい姿形をしているのではなく、やさしげな姿で人間に近づいてくるものです。最初から恐ろしいかっこうをしていたら、私たちは警戒して寄せつけまいとします。この場合も、「いたわりのことばを発しつつ」という表現で、悪魔が釈尊の身を案じて近づいてきたのだと誤解してはなりません。
3-5-2 悪魔が象徴するもの
ところで、「悪魔というのは単に神話上の存在にすぎず、この物語も後世の創作であろう」と現代人は切り捨ててしまいがちです。しかし、仮に神話的存在であるとしても、そこには何らかの意味が込められており、釈尊も象徴的・暗喩的な意味で述懐したのであろうと考えることができます。
では、どのような意味が込められているのか、二点ほど考えられます。
第一に、悪魔は人間の内面的弱さの投影であるということ。釈尊は苦行生活中に、つねに誘惑とのたたかいの渦中にあったのではないでしょうか。釈尊といえども人間であり、内に迷いを抱えていたといえるでしょう。悪魔とは、自分の外部にある恐ろしい存在ではなく、自分の内部に巣くう迷いや煩悩の象徴ということになります。この想定は、この後に釈尊が覚りをひらいた時に人々に自分の覚った法を伝えるのをためらった、と自ら告白していることからも、あながち的外れとはいえないでしょう。
第二に、当時の宗教状況との関係があります。引用にあるように、「ヴェーダ学生としての清らかな行いをなし」「聖火に供え物をささげ」るということは、バラモン教の命ずる道徳義務であったわけですが、釈尊はシュラマナとしてバラモン教に批判的でした。とりわけ、火を用いた儀式に対しては明確に拒否しています。
バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。それは単に外側に関することであるからである。 外的なことによって清浄が得られると考える人は、 実はそれによって浄らかさを得ることができない、 と真理に熟達した人々は語る。(『サンユッタ・ニカーヤ』 より、中村元訳)
そのような釈尊に対して、バラモン教司祭のブラーフマナが自らの伝統や権威を守るために忠告または弾圧を試みた、端的に言って、悪魔とはブラーフマナのことである、と解釈することもできます。
釈尊の悪魔ナムチに対する対応をみてみましょう。生きて諸々の善行をなし功徳を積むことを勧める悪魔に対して、釈尊はきっぱりと拒否します。
汝は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、わたくしにはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。(『スッタニパータ』より、中村元訳)
ここで、悪魔は世間的な善や功徳を勧めにやってきた、と釈尊が考えていたことに注意する必要があります。悪徳への堕落を勧めるのではなく、世間的な善・功徳を代表する存在が悪魔だ、という考え方は、仏教が出世間的な価値を何よりも重んじ、世間的な価値を軽んずるものであることを示しています。このように考えると、上記の二つの解釈のうち、どちらかといえば、第二の解釈のほうが正鵠を射ているように思われます。
3-5-4 キリスト教における悪魔の誘惑
実は、キリスト教でも似たような話があります。「荒野の誘惑」として名高い話ですが、イエスがヨハネから洗礼を受けた後、聖霊によって荒れ野に送り出され、そこに40日間留まり、悪魔(サタン)の誘惑を受けた、というのです。その誘惑とは、三つの内容から成り立っていますが、その第一を引用してみます。
さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである』と書いてある」。「マタイによる福音書」より、日本聖書協会1955年改訳版
釈尊もイエスも、世俗的な意味での善や幸福ではなく、出世間的な真理を求めた、という点で共通しています。なおかつ、釈尊もイエスも、肉体的に衰弱した状態(空腹状態)にあり、悪魔は釈尊に対しては「生きよ」と呼び掛け、イエスに対しては石をパンに変えて「食べる」ことを勧めたのです。しかし、二人とも断固として食べることを拒否したわけですが、それは肉体を健康に保つことよりも真理を求めることが関心事だったからです。もちろん、後に教えを広めていく過程では、弟子達に断食を修行方法として勧めることはありませんでしたが、自らの求道精神としては、命を懸けてまでも、という覚悟があったことを銘記すべきでしょう。
3-5-5 その後の悪魔
悪魔は、釈尊の苦行時代にとどまらず、その後さまざまな場面で登場してきます。たとえば、釈尊が覚りをひらいた時には、「不死にいたる安穏なる道をさとったのであれば、その道を汝ひとりで行け。どうして他人に教えようとするのか」と、転法輪(法を説き広めること)の妨げをなそうとしたり、「子や財産をつくることが人としての喜びであり、頼るもののない人には喜びがない」という趣旨の主張をしたりします。
悪魔とは、人に危害を加える恐ろしい存在というのではありません。敵というのでもありません。釈尊は悪魔に対して「悪しきもの」「怠け者の親族」などと呼びかけています。ある場合には内面的な迷いであったり、別の場合には外部からの誘惑・妨害・弾圧であったりするのでしょう。いずれにしても、悪魔は終生克服していくべきもの、というのが仏教での位置づけです。
教心寺 釋眞弌