仏教の基礎:釈尊の生涯
3. 釈尊の生涯
3-2. 生誕から青年時代まで
釈尊生誕の地はルンビニーとされています。現在のネパール領です。母のマーヤーが出産のため実家に帰る途中で産まれたとされ、仏教四大聖地の一つとなっています。その80年の生涯において、29才(一説には19才)で出家し、35才(一説には30才)で悟りをひらき、以後45年にわたる伝道生活をおくりました。しかし、出家以前の生活については確実なことはほとんど分かっていません。多くの伝説は残っていますが、それが史実だったかどうかを確認することはほとんど不可能です。
3-2-1 右脇から産まれた?
釈尊の前世は兜率天(次世代のブッダあるいはブッダの後継者が住む世界)における菩薩であり、そこから場所や親となるべき人物を入念に選び、自身の意志によって、白象に化身して、マーヤーの右脇から胎内に入りこみ、そして右脇から産まれたといいます。
白象が何を象徴しているのかについてはよく分かりませんが、仏教では親しまれている動物で、普賢菩薩の乗り物ともされています。
右脇から産まれたというのは奇妙な伝説ですが、これは釈尊がクシャトリアの出身であることを暗示していると思われます。バラモン教の『マヌ法典』や『リグ・ヴェーダ』によれば、梵天(ブラフマー、バラモン教の神)の口からブラーフマナが、上半身からクシャトリアが、下半身からヴァイシャが、足からシュードラがそれぞれ生まれたとされています。また、なぜ右かというと、インドの習俗によると、右は清らかで、左は汚れているからです。これはもちろん後世に創作された話であり、カースト制度の影響が仏教内部にまで浸透していた証拠といえます。事実はもちろん、釈尊はふつうの人間として産まれたのです。(仏教には「処女懐胎」のような非科学的伝説は無用です)
3-2-2 天上天下唯我独尊
産まれてすぐに七歩を歩み、右手で天を指し左手で地をさして「天上天下唯我独尊 今茲而往生分已尽」と宣言した、という伝説は有名です。これは玄奘三蔵の『大唐西域記』が伝えていますが、意味は、「この世界においては我のみ尊い、なぜならばこれが我にとって迷いの世界の最後の生であり、ふたたび迷界に流転しないからである」ということです。いっぽう、『修行本起経』には「天上天下唯我為尊 三界皆苦吾当安之」となっています。意味は、「欲界・色界・無色界の衆生はみな苦しんでいる。私はこの苦しんでいる衆生を安んずるために誕生したから、尊いのだ」となります。いずれの場合も、後世の仏教徒が釈尊の悟りを輪廻からの解放または衆生救済という点でとらえ、それを尊んだがゆえの創作です。ただし最近になって、「人は皆それぞれにかけがえのない尊い存在である、すべての人が独尊である」という解釈も生まれています。
なぜ「七歩」なのか、については、迷いの世界である六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を超えたということを表している、という解釈があります。しかし、「七覚支」(覚りに到るための七つの方法)の象徴だとも考えられます。
3-2-3 アシタ仙人の予言
最古の経典の一つ『スッタ・ニパータ』は次のようなエピソードを伝えています。アシタ仙人は未来のブッダが誕生したことを神々から聞き、王宮を訪れました。そして王子を抱きかかえると、急にふさぎこみ涙を流しました。周囲の人たちは驚いて『何か障りがあるのでしょうか』と尋ねたところ、アシタ仙人は、次のように答えました。「私は、王子に不吉の相があるから泣いたのではない。この王子は、家にあれば、全世界を武器を用いず徳によって征服する偉大な王(転輪聖王)になるであろうし、また、出家すれば、精神界の王として、人類を救済するブッダとなるであろう。いずれにしても、すでに年老いた私は、この方の成人された姿を見ることができない。そう思うとつい悲しくなって涙がこぼれたのである」と。
転輪聖王とは、インドでは理想的な君主とされています。ただし、転輪聖王という観念が釈尊の時代に既にあったかどうかは分かっていません。少なくとも言えることは、仏教においては世俗的支配者と宗教的指導者の二者は両立しえないと考えられていることです。すなわち、世俗の権力者はブッダにはなれないのです。
釈尊の父は、わが子が宗教的指導者になることを望まなかったようです。幼い時から武芸や学問をたたきこむと同時に、豪奢な暮らしを与えましたが、それはわが子が世俗的支配者として成功することを期待してのことだったに違いありません。
生母のマーヤーは、出産後まもなく亡くなりました。釈尊の育ての母となったのは、マーヤーの妹で、父シュッドーダナの第二夫人であったマハープラジャーパティでした(当時の風習では、姉妹の両方を娶るのは普通でした)。彼女はのちに、釈尊に懇請して、最初の比丘尼(女性出家者)となり、比丘尼サンガの指導者として尊敬を集めました。
生母との死別という事実は、ものごころつかない時期のこととはいえ、釈尊の心に何らかの刻印をあたえたことでしょう。しかしながら、釈尊は直接に生母に言及していないので、どのように考えられていたのかは分かりません。
3-2-5 幼少の頃
釈尊が幼少の頃(10才頃)、農耕祭でのことです。多くの牛が犂を付けて田を耕すのを眺めていた時、鋤き起こされた土の中から、小さな虫が堀り出されました。それを見つけた小鳥がその虫をついばみ去りました。さらに、その小鳥を大きな鳥(鷹)が襲いました。釈尊は、この弱肉強食の悲しい現実を見て、「なぜ生きものは殺し合わなければならないのだろう」と、もの思いにふけったといいます。
釈尊はまた、当時のクシャトリアが訓練として行っていた狩猟を好まなかったといいます。このように、感受性が強く、優しい性格であったのですが、おそらくそれは両親の歓迎するところではなかったと思われます。
両親は、わが子が出家してしまわないよう、なに不自由のない生活を保証しようとしました。彼のために三つの宮殿が与えられたといいます。しかし、物質的な享楽によっては心が満たされることはありませんでした。
3-2-6 結婚・ラーフラ誕生
当時は一夫多妻制でしたから、釈尊もまた、16才か17才で複数の女性を妻に迎えました。そのうち、第一夫人はヤショーダラーといわれています。彼女は、釈尊が29才、すなわち出家の直前になって長男を出産します。
この長男誕生の知らせを聞いた釈尊は、「ラーフラが生まれた」とつぶやきました。この「ラーフラ」が長男の名となりました。後に、「ラーフ」は悪魔という意味であることから、「ラーフラ」とは束縛とか障碍とか魔といった意味で、「自分が出家するのに妨げになるので、そういう命名をしたのだろう」という解釈がなされていました。しかしながら、これには二つの点で問題があります。
第一に、いくらなんでもそのような発想で釈尊が命名したとは思われません。親は子の命名にはそれなりの思慮をつくすものです。またシュッドーダナもラーフラという命名を喜んだという伝承からしても、上記の説は不自然です。
第二に、釈尊にとって長男の誕生がほんとうに束縛と感じられたのなら、その直後に出家してしまうはずがありません。むしろ、長男が誕生したことでガウタマ家の跡継ぎができたので、後顧の憂いなく出家することができたのだと解するのが自然です。インドでは、家の跡継ぎができなければ出家はできないのが通例でした。
すると、ラーフラには何か別の意味があるはずです。「龍の頭」とか「魔を断ち切るもの」という意味であるという解釈もありますが、確実なことは分かりません。
教心寺 釋眞弌