質問への回答
法名(戒名)は必ず付けなくてはいけませんか?故人は無宗教だったので、俗名のままでお葬式をしてもらいたいのですが。
お葬式のときの名前は法名がよいのか俗名(戸籍上の名前)がよいのかという前に、元々名前とはどのように使われ、どのような歴史があるのか。また法名とは何かということ考えてみないと結論が出ないのではないでしょうか。
現在の日本では、生まれた時に親から付けてもらった名前を一生涯名告り続けるという方がほとんどで、途中で名前に変えたり、別名を使ったりという方はほとんどおられないのではないでしょうか。その意味で人が名前を変えるという習慣は日本ではなくなってしまったといってもいいでしょう。
しかし昔は幼名から元服して名前を変え、その後も頻繁に名前を変えました。人生の目標などを変えるたびに名前を変え、自分の生き方を変えたことを内外に表明してきたのです。例えば元服の時を考えてみて下さい。元服の前は子供で元服の後は大人です。本人には昨日までの私と今日からの私は、見た目は同じでも違う人になったという自覚があったことでしょう。元服をした後には周りの人に子供扱いはしてほしくないと思うでしょうし、一人前の大人としての扱ってほしいと望んだことでしょう。したがって「○○丸」などと幼名で呼ばれたら、侮辱されたと思いプライドが傷ついたのではないでしょうか。
このように名前を変えるということは昨日までの私と、今日からの私は中味が違うということを表し、そのことを周りの人々の理解してもらうために名前を変えて理解を求めるという意味があり、自分自身の中味や生き方を表すものとして使われてきた歴史があるのです。現代を生きる我々には名前を変えるということに違和感を覚えますが、昔の人にとっては、名前をかえるという行為には必然性や必要性があったのです
今回問題になっている法名を授かり、それを名告るということは、昔の人が名前を変えたのと同じように必然性や必要性があるのです。
それでは法名を授かり、それを名告るということにはどのような意味があるのか考えていきましょう。
仏教には「帰敬式」と呼ばれる儀式があります。それは「おかみそり」とも呼ばれ、お釈迦様の弟子となる、すなわち仏教徒となることを誓うための儀式です。帰敬式とは、仏・法・僧の三宝に帰依し、仏弟子として新たに出発をするための大事な儀式です。三宝に帰依するとは名聞(みょうもん)・利養(りよう)・勝他(しょうた)という「三つの髻(もとどり)」を断つことを意味します。名聞・利養・勝他などというと難しいですが、今でいえば名声・財力・権力のことで、三つの髻を断つとはその名声・財力・権力を求める心をリセットすることを意味します。すなわち名声や財力や権力を求めて止まない我々の価値観や、自分の欲望を満たすことだけを人生の喜びとしてきた人生観から、人生の方向を転換し、それと対局にある仏様の願いの世界……すなわち自己中心的な世俗の価値観からの真の解放を願い、また他を差別し排除することをもって自らのよろこびとしていくような価値観に囚われるのではなく、真の連帯を求める生き方に転換することを誓うのです。そしてそのことを誓った者に授けられる名前、それが法名なのです。すなわち法名とは、人生の求めていこうとする方向性を転換することを誓ったものに授けられる名前で、その法名を自らが名告るということは、仏教の教えにしたがって生きていこうとすることを内外に宣言することでもあるのです。この説明で御理解いただけるのではないかと思いますが、法名とは本来、亡くなった人に対して「おかみそり」の儀式を行い授けるものではなく、生前に授かっておくべきものなのです。したがって法名とは亡くなった人に与えられる死後の別名でもなければ、生前のニックネームのような軽いものでもないのです。
話を最初の質問に戻します。質問は「法名(戒名)は必ず付けなくてはいけませんか?故人は無宗教だったので、俗名のままでお葬式をしてもらいたいのですが。」ということでしたが、今説明をしたように法名には大切な意味があると同時に仏教徒であることの証明でもあるわけですから、どうしても法名は必要です。法名を付けないで俗名のままお葬式を勤めるということはありえません。逆に言えば法名がないということは何教徒であるかの区別が出来ないということにもなります。故人が仏教徒であることの証明が法名なのですから当然必要になるということなのです。ご理解頂けましたでしょうか。
最後になりましたが、説明の途中で法名は生前に授かっておくべきものだという話をしましたが、「おかみそり」を受けて「法名」を授かることを希望される方は、それぞれの所属寺の住職に御相談下さい。