質問への回答
なぜ本願寺は東西に分かれているのですか?
名古屋教区第30組の寺院は真宗大谷派に属します。真宗大谷派の本山は真宗本廟(東本願寺)です。京都の烏丸七条にありますが、その西の堀川七条には西本願寺(浄土真宗本願寺派本山)があります。
東西本願寺はもともと一つの本願寺でした。その東西に分かれるきっかけとなったのが、戦国時代の織田信長との石山合戦といわれる戦いでした。当時の本願寺は石山本願寺といわれ、いまの大阪城あたりに広大な伽藍を構え、そこに住む門徒衆で寺内町を構成し、戦国大名に匹敵する力を持っていました。
織田信長との戦いは10年にも及び膠着状態となり、正親町天皇の仲裁による和睦が図られました。そのときに本願寺の内部で和睦派と徹底抗戦派にわかれてしまい、これが後に東西分派の原因となるのです。和睦派は当時の宗主である顕如上人(以下、顕如)、徹底抗戦派は顕如の長男である教如上人(以下、教如)を主として内部で対立。顕如は和歌山県の鷺ノ森へ逃れ、教如は本願寺に残ります。しかし、結果的には徹底抗戦もかなわず教如も本願寺を去ることになります。
その後、天下は豊臣秀吉の時代となり、京都に本願寺の再興が許されます。この本願寺が今の西本願寺になります。しかし、その2年後、宗主の顕如が逝去。跡を長男・教如が継ぎますが、石山合戦での内部対立が尾を引き、すぐに教如は隠居を迫られ、弟で顕如の三男である准如上人が本願寺を継ぐことになります(西本願寺初代)。その約10年後、関ケ原で勝利して天下を取った徳川家康が今度は教如を宗主として今の東本願寺の建立を認めます。これにより本願寺は東西に分かれることになるのです。
もともとは一つだった本願寺がこのような流れで東西に分かれました。同じ親鸞聖人を宗祖としますので教義的には違いはないのですが、細かいところではそれぞれの歩みをしてきました。
伽藍でいえば、阿弥陀堂と御影堂の位置が東西では逆になっています。また仏具類も違いがありますし、お勤めの仕方も違います。京都に行かれたら、そのあたりも注意して両本願寺をお参りするのもいいかもしれません。
なお、石山合戦については武田鏡村著「信長・本願寺十年戦争」(KKベストセラーズ)に本願寺の立場からみた合戦が詳しく書かれていますので、興味がありましたら一読をお薦めします。