人権を考える
名古屋教区第30組
第2期第1回「人権問題」学習
ハンセン病問題の取り組みについて
1 ハンセン病とは
「癩(らい)病」とハンセン病
・ハンセン病とは「らい菌」による感染症、抹消神経を侵す。感染力は非常に弱く、潜伏期間が長い。数年あるいは10数年ともいわれている。
1873年 アルマウェル・ハンセン(ノルウエー)らい菌を発見する。
1980年 「らいを正しく理解する集い」で「全患協」が「らい病」を「ハンセン病」に改めるよう要請、同年から実施される。「らい」という言葉につきまとう偏見と差別の解消。
特効薬プロミン
(1943年アメリカで発見)
日本では1947年(愛生園)より使用開始。
プロミン以前は特効薬が無く「不治の病」といわれた→遺伝病、業病、天荊病。
現在は多剤併用療法(1981年)により完治する。
2 隔離の歴史
法律の変遷
・1907年(M40)「ライ予防ニ関スル件」制定(国辱論、富国強兵)...浮浪患者対象
・1931年(S6) 「癩予防法」制定... 全患者対象(在宅患者も対象)
・1953年(S28)「らい予防法」制定
(三園長証言)「手錠をかけてでも連れてこられるような法律に(光田健輔)」
当時の世界のハンセン病問題の方向は隔離から開放(在宅)治療へと向かっていた。
(1956年「らい患者保護及び社会復帰に関する国際らい会議(ローマ会議)」において日本の隔離政策を批判。
・1996年「らい予防法廃止に関する法律」により廃止。(89年間)
「らい予防法」がもたらしたもの
「らい予防法」には入所規定はあっても退所規定はない→癩絶滅政策、終生隔離
恐ろしい病気という誤った知識を社会に植えつけた。
無癩県運動
(1次1939年「愛知県よりハンセン病を無くそう」という民間運動から始まる。第2次1940年代後半)
患者のあぶり出し(警察、保健所、市町村職員による入所勧奨「療養所はいいところだ、3年治療すれば帰れる」→患者の家の徹底的な消毒→お召し列車・伝染病患者移送中の張り紙・駅などで患者の歩いた跡を消毒→恐ろしい伝染病→残された家族は村八分→一家離散)
強制収容
1940(S15)年熊本県本妙寺らい部落を急襲。145人各療養所へ送致。
らい予防法によりハンセン病の治療は療養所だけに限られていた。従って療養所に入るしかなかった。「国は謝った。でも私を探し出して強制的に収容した職員に謝って欲しい。私を探し出したように草の根を分けてでも」(第一次原告の証言)
入所後の生活 「療養所ではない、収容所」
・「お前達をどう扱っていいか分からない、だから囚人より罪一等減じた扱いをする」と言った、警察出身の初代全生病院々長の言葉。(当初、療養所は内務省管轄→1938年厚生省へ移管→厚生労働省)
・クレゾールの風呂(愛生園) 、偽名の使用、園内通用券、解剖承諾書(願い)。
・プライバシ-のない住居(15畳10人)
・患者作業(病棟・重症者の看護介護、建築、土木作業、火葬、給食・配食、養豚等
・結婚の条件としての断種、堕胎(絶滅政策)。12畳の部屋に4組の夫婦。
・胎児標本(114体)「産声を上げたがそのまま連れていった」
・懲戒検束権(1931年) 外出の制限(壁、柊の垣根で囲う)(両親などの葬式にも帰れなかった)
監禁室(恵楓園・光明園に現存)
特別病室(重監房92人中22人獄死 栗生楽泉園 「ともどもに学びし鈴木もしばられて零下20度の監房に死にき」
長靴事件(1941年 洗濯場事件 多磨全生園)
・火葬場、宗教施設、納骨堂(引き取り手のないお骨16000)
・ 医療刑務所(1951年 熊本・菊池恵楓園)の存在。
療養所の変遷
私立療養所 1870年代より個人・仏教・キリスト教関係の療養所設立される。
府県立療養所 1909年全国を5区に分けて 北部保養院(青森)、全生病院(東京)、外島保養院(大阪)、大島らい療養所(香川)、九州らい療養所(熊本)設立
国立療養所 1930年長島愛生園設立 その後順次7園設立 府県立療養所5園も国立へ移管
療養所入所者(現在)
・国立13園、私立2園 約3000人、平均年齢79歳、入所歴約50年。(誤診で入所させら れた人もいる(疑わしきは収容、入所以来一回も治療をしたことがない人もいる。また誤診と分かっても退所させなかった)。現在、入所者はハンセン病は完治している。後遺症が見える所にでることで嫌われた。
・故郷、家族とのきずなの分断。
「親が亡くなったことを知らせてもらえなかった」「両親の墓参りができない」「親族の結婚問題」「県の故郷訪問事業で車で実家の周りを回って帰る。名所旧跡を巡って帰る」「亡くなったことになっている」「戸籍を抜かれた人もいる」
退所者、非入所者の被害
退所者1400非入所者400人
・社会潜伏。家族にも秘密にしている。
「履歴を偽って就職」「家族にさえ療養所にいたことを話せない」「自分の子や孫に素手で触ったことがない」「結婚しても決して子供をつくらなかった。そのことが原因で離婚」「子供の結婚問題への影響を今も心配している」
・退所者 軽快退所(1937年ころより)「らい予防法」廃止後退所 「国賠訴訟」勝訴後退所
家族、遺族の被害
・破談、離婚
「私は自らを恥じ、父に詫びたいと心底思いました。父を語ることを通じ、愛する我が子にまで嫌悪された父の無念を明らかにしたい」
・山梨一家9人心中事件
植民地下の療養所
・韓国小鹿島更生園(1916年、現、国立ソロクト病院)、台湾総督府楽生院(1930年、現、台湾 楽生院)満州同康院(1939年)パラオ・サイパン・ヤップ・ヤルート等
・「隔離政策」と「植民地政策」が融合し日本の療養所より更に厳しい管理、強制労働が課せられた。また、暴力による支配であった。
特に懲罰としての断種は特異(日本の療養所では結婚の条件)であった。
ソロクト資料館には、逃走を繰り返す入所者に押しつけたという焼きゴテが残されている
軍需物資の製造を患者作業として強制し、それで得た資金を療養所の運営費とした。
神社参拝の強要、入所者から集めた資金で建設した日本人園長銅像への参拝の強制。
長時間労働 「星を見て作業を始め、星を見て作業を終える」との証言。
・日本植民地下に強制収容された韓国ソロクト更生園(112人) 、台湾楽生院入所者(25人)が、「ハンセン病補償法」に基づく請求をしたが、厚生労働省は却下、その取り消しを求めて提訴した。2005年10月25日 ソロクト敗訴、台湾勝訴の判決。
2006年2月「ハンセン病補償法」の対象に日本植民地下の療養所(韓国・台湾・パラオ・サイパン・ヤップ・ヤルート)を追加する。
・台湾楽生院強制立ち退き問題。「多数の利益のためには少数の犠牲はやむを得ない」
市民の差別意識
(藤本事件1951年、黒髪小学校問題「あつい壁」、黒川温泉宿泊拒否事件)
・人々のハンセン病に対する考えだけは、決して変わるものではない、ハンセン病患者の家族は、やはり嘘偽りで固めた心のまま生きていくしかない」(黒川温泉宿泊拒否事件後の家族の会員の言葉)
・ 黒川温泉宿泊拒否事件における中傷非傍・差別書簡。
その一方でハンセン病問題に出会った子供達からの激励の手紙。
・「らい菌は外へ出たら3秒で死ぬ」と言って、1970年代に駿河療養所の入所者を雇っていた、裾野市の建設会社々長の言葉。正しい知識が偏見・差別を破っていく。
3 闘いの歴史
患者運動 (「全患協 、全療協」の闘い)
・「日本プロレタリア癩者同盟」 20人が外島保養院より追放(1933年外島事件)
・1949年 プロミン獲得闘争
・1951年「全患協(現、全療協)」結成
らい予防法改正闘争→成立→待遇改善要求闘争(患者作業の返還)
各園に自治会を作り法廃止を求めたが三園長の国会証言等により成立。
その成果→新良田教室、多摩ハンセン病研究所設立。
「生徒は職員室に入れなかった。入り口にあるブザーを鳴らして先生を呼び出す」「生徒が納入したお金は、消毒液に浸し窓に張りつけて乾かす」(卒業生)
・1988年 邑久・長島大橋開通「人間性回復」の橋 「これで人間に戻れる」
・1999~2001年「国賠(らい予防法違憲国家賠償請求訴訟)のたたかい(熊本、東京、岡山)
2001年5月11日 熊本判決により国の終生隔離政策の誤りが認められた。
少なくとも1960年以降は隔離の必要はなかった。(プロミン等の治療薬により治る病気となっていた、通院治療でよかった。しかし、治療は療養所に入所しないと受けられなかった)。また、病気そのものも当時言われたような恐ろしい病気ではなく、伝染性も弱かった(らい菌は今でも培養が難しい)その偏見と差別が今も残る(故郷へ帰れない、家族との絆の断裂、納骨堂の遺骨の問題等)
・国賠訴訟後の原告団と厚生省との確認事項
(1)謝罪、名誉回復 新聞に掲載
(2)在園保障 最後の一人まで面倒をみると言っているが、具体的案なし。
(3)社会復帰、社会生活支援 退所者社会生活支援金
(4)真相究明、再発防止 検証会議最終報告書。ロードマップ委員会。
・退所者、家族の闘い
全国に10の退所者の会(全国療養所退所者連絡会)、家族の会(れんげ草の会)を結成。 「バスの中で障害の残る指のことを、バスの乗客からリュウマチですかと聞かれ、ハンセン病の後遺症ですと答えた」(カミングアウト)
医療過誤訴訟、認知訴訟、ソロクト・台湾楽生院訴訟等に全面的支援。
・医療過誤訴訟 多磨全生園退所者
東京地裁で全面勝訴、和解。和解の条件 療養所の医療のレベルを第三者機関にチェック。
・認知訴訟
4 大谷派関係(宗教の果たした役割)
隔離政策に積極的に協力した歴史。
・1909年(M42年)多磨全生園(全生病院)布教。
・1931年(S6年)大谷派光明会 癩予防と救護慰安を目的とし設立。(武内了温)
総裁(裏方)会長(宗務総長)相談役(渋沢栄一、光田健輔等)評議員(各教務所長)
小冊子『癩絶滅と大谷光明会』発行
機関誌『真宗』に掲載 1931~32年にかけて集中して掲載
癩絶滅ポスター(『真宗』に綴じ込み)
「癩隔離」政策強化期における一布教師の見解 (和光 堅正)
「癩隔離」政策強化期における国立長島愛生園事務官の弁 (四谷 義行)
「癩絶滅運動」と大谷光明会の発会 三カ月連載 (武内 了温)
〈九族地獄に堕す〉
「単に一個人の破滅ではない。一人出家すれば九族天に生るというが、一人癩に感染すれば九族地獄に堕すのである。縁談は破れ破鏡の憂き目を見、善隣の交わりは全く絶たれ、世を呪い人を恨む九族の地獄の姿は、思っても堪へ難いものではないか」
〈入園者の行くべき道〉
「皆さんが静かにここにおられることが、そのまま沢山の人を助けることになり、国家の為になります。報国尽忠のつとめを果たすことになる」 (暁烏 敏)
大谷派の近年の取り組み
・宗派としての取り組み
1990年 | 真宗ブックレット『ハンセン病と真宗』発行 |
1996年 | 真宗大谷派「らい予防法」廃止に向けての懇談会設置(現、ハンセン病問題に関する懇談会) 「ハンセン病に関わる真宗大谷派の謝罪声明」を表明 「らい予防法廃止にかかる要望書」を国に提出 |
1997年 | 「真宗大谷派・全国ハンセン病療養所交流集会」開催(京都) 「ハンセン懇」の取り組み(連絡会、ネットワ-ク通信「願いから動きへ」発行、「いま、共なる歩みを ハンセン病回復者との出会いの中で」出版 真宗ブックレット「小笠原登 ハンセン病強制隔離に抗した生涯」出版 |
1998年 | 「第2回真宗大谷派・全国ハンセン病療養所交流集会」開催 (京都) 「一人ひとりの京都宣言」表明 |
2000年 | 「第3回真宗大谷派・全国ハンセン病療養所交流集会」開催 (京都) 「「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟に対する大谷派の見解」表明 被告として問われた訴訟 |
2001年 | ギャラリー展「隔離から解放へ ハンセン病と真宗」実施 「「ハンセン病違憲国家賠償請求訴訟」判決に対する見解」表明 |
2001年 | ギャラリー展「隔離から解放へ ハンセン病と真宗」実施 「「ハンセン病違憲国家賠償請求訴訟」判決に対する見解」表明 |
2002年 | 「第4回真宗大谷派・全国ハンセン病療養所交流集会」開催「草津宣言」表明 |
2003年 | ギャラリー展「いま、共なる歩みを ハンセン病問題に照らされる自己と教団」 |
2004年 | 「第5回真宗大谷派ハンセン病問題交流集会」開催 沖縄愛楽園を中心に開催 ギャラリー展「部落問題とハンセン病問題 その重なりから見えてくるもの」 |
2005年 | 「ソロクト・台湾ハンセン病訴訟」判決に対する見解 |
2006年 | 「第6回真宗大谷派ハンセン病問題交流集会」開催 |
・ネットワーク「願いから動きへ」設立
故郷訪問、墓参りへの協力。
・各教区の取り組み
・宗議会議員の取り組み 同朋社会専門委員会
療養所訪問を継続
宗教は「被害を被害と思わせない」ほどのはたらきをしていった。「ハンセン懇」真相究明 部会での聞き取りを実施中。
「謝罪声明」(1996年)の内実化
・療養所訪問も大事だが、ハンセン病回復者を寺に迎えることを考えていく。
・ご門徒用リーフレット作成。
・回復者用リーフレット 墓参り、家族との関係。
5 ハンセン病問題のこれからの課題
ハンセン病問題から見えてくる諸課題。
・療養所の今後 丸ごとの社会復帰。(偏見差別の解消)
・ 故郷と家族の問題 つながりの復活「55年ぶりの親子の再会」「50年ぶりの両親の墓参り」「同窓会での再会」(「なんでこんなことに50年もかかったのか」)
・ 退所者、遺・家族の会
・ 「検証会議」報告書、「ハンセン病市民学会」
・ 「胎児標本」の問題。
・ 療養所の将来構想
「3つの壁」 (1)法の壁 (2)差別の壁 (3)行政の壁
「ハンセン病基本法」制定に向けて
・「一人になる前に早く死にたい」
なぜ真宗の課題なのか。
わたしの人間回復
・ 一人ひとりを人間(同朋)としてみる。人と人のつながり→偏見・差別の解消。
・ 差別問題から問われる「教団」「真宗」
「僧侶は、人が死んだ途端にものすごく丁寧になる。でも、生きている人間には冷たい。 本来、宗教は生きている人を相手にするのではないか」「死んでからも差別するのか」「寺は社会的に存在していないのではないか」「宗教を批判すると家族に「らい」が出る」
・「ハンセン病問題」を法話や法事の場で話して欲しい
・「無関心は肯定だ。加害と一緒だ」
・宗教の課題と社会の問題とは別なのか。
・「私は差別者です」という立場からの脱却。
・武内了温「社会課設置理由書」 寺院住職の存在理由
「寺院住職の存在の意義に二種あり、一つは社会の現実的要求満足のための住職寺院の活動なり、二つには社会の宗派的要求満足のための住職寺院の活動なり」
・国の責任、社会の責任、私の責任。
6 私の関わり
・1994年、久留米教区社教で長島愛生園訪問。園名藤井善、本名伊那教勝さんと出会う。 納骨堂前で「私は死んだらここに入ります。でも安らかには眠りません、あなた達の今後を見ています」との言葉をもらった。1995年亡くなる。
愛生園訪問に際し、資料を作成し事前学習を行なった。しかし入所者と握手をしたが、早く手を離したいと思う私がいた。
・1995年、菊池恵楓園真宗報恩会を訪問。久留米教区社教で月一回の定例を始める。
・熊本国賠訴訟で原告の変わっていく姿を見せてもらった。
・現在は関西退所者の会(いちょうの会)、愛生園・光明園と定期的に交流・訪問。
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