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法話:念仏

念仏
一心寺 釋 和音(前田和丸)

ナムアミダブツという言葉を知ってますか?
「なむあみだぶつ」と称(とな)えたことは、ありますか?
南無阿弥陀佛の意味を知ってますか?
ナムアミダブツはあなたに必要なことばですか?

歎異抄(たんにしょう:親鸞聖人語録)には、唯円房(ゆいえんぼう)の問いかけが記されています。「念仏を申しているのですが、信心をいただいたという歓喜の心がわき上がるわけでもなく、また、早く浄土へ参りたいと思う心も起こらぬのですが、どうしたものでしょうか」と。唯円房は、念仏の行によって、天にも踊り地にも躍るほどの喜びが得られるものと予想して聖人にたずねられたことでしょう。

現代では、念仏申すというと、喜ぶ心どころか、お悔やみの言葉のように理解されているきらいがあります。本来「生老病死」を通して「南無阿弥陀佛」なのですが、誕生日に、成人式に、結婚式に、病気のお見舞いに「ナムアミダブツ」と称えると、どんな印象を持たれるのでしょうか。

そこで、念仏について、ちょっと考えてみたいと思います。

今から五百年前に、本願寺の継承に苦労された蓮如(れんにょ)上人は、「南無阿弥陀佛に身をまるめたる」(御一代記聞書)と言われたそうです。それは、寒い日にコートに身を包むように我が身、すなわち自分の生涯を念仏に包まれていたと述懐されたことと思います。

「あなたの人生は何に包まれていますか?」蓮如上人から、そのように問いかけられているような気がします。 夢や希望でしょうか、学歴や地位でしょうか、お金やブランド品でしょうか、争いや憎しみでしょうか、悩みや疑惑でしょうか。

浄土真宗の身近なお聖教の「正信偈」の中に、「貪愛瞋憎之雲霧 常に真実信心の天に覆えり」とあります。四苦八苦の人生はなかなか晴れ晴れとしない、なぜなら煩悩の雲霧に覆われているからだというのです。先の歎異抄で、唯円房に対して「よろこぶべきこころをおさえてよろこばせざるは煩悩のなせるところである」と、聖人が応えておられます。煩悩が我が身も世界も覆っているというのです。

そして聖人は語られました。「仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば他力の悲願はかくのごときわれらがためなりけりとしられていよいよたのもしくおぼゆるなり」と。貪欲、愛執、瞋憎、愚痴という迷いと惑いから離れられない落第生の「私」に、願いをかけて浄土へ導かんと誓っている仏様があったと言われたのでした。「私」の生まれる前からです。

時代と国と社会を超えて(アミダとは「無量無辺」という意味を示します)、浄土へ導かんとする働きが南無阿弥陀佛です。常に真実の利を求めなさいと呼びかけられていることばです。声に表して「ナムアミダブツ」です。聖人は「如来大悲の恩徳」と言われ、蓮如上人は「仏恩報謝」と言われました。さて、あなたには必要ありませんか?


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