法話:お仏壇の話
お仏壇の話 安順寺 釋 一実(佐々木一実) |
数年前友人がお父様を亡くしてしまいました。当然お葬式には行ったのですが、2、3日して改めて自宅へお参りに行かせてもらいました。友人の家は分家(新家)なので中陰壇が飾ってあるだけだと思って伺ったのですが、既にお仏壇があり、それも新しいものではなく、30年以上が経過したと思われるほど年季の入ったものだったので、私は少々驚かされました。
私はお仏壇のことが気になったので友人のお母さんにそのことを尋ねてみました。お母さんの話によると、それは40年ほど前、分家として今の家を新築したときに、実家のお母様が、友人から言うとお婆ちゃんが、「一軒の家を構えた以上はお仏壇がないというわけにはいかないんだよ」といってプレゼントして下さったものだと言うことでした。そしてお婆ちゃんは「これで孫にも手を合わせることを教えなさいよ...だいたいお仏壇のない家なんて犬小屋と一緒なんだからね」とおっしゃったということでした。この話を聞いて私はとても驚かされました。
現在私は昭和区にある安順寺の住職をさせて頂いていますが、誰も亡くなったことのない分家でお仏壇があるという家庭は一軒も拝見したことがありません。分家では家族の誰かが亡くなってから、お葬式の後で慌ててお仏壇を求めるという家庭ばかりです。それどころか家族の誰かが亡くなる前に仏壇を準備すると早死にするなどと言って、誰も仏壇を求めようとはしません。これが現代の一般の方の仏壇に関する思いではないでしょうか。ということは、一般の方にとっては仏壇とはお亡くなりになった先祖を祀るためのものであって、それ以外の目的はないということなのでしょう。したがって誰も亡くなったことのない家庭においては仏壇を求めるということはあるはずもないことですし、あってはならないことなのでしょう。仏壇とはあくまでも「死」に関連したものであり、「生」に関連したものではないのです。
このように考えていくと、友人の家は一般の家庭とは違う考えをしてこられたように思います。誰も家族が亡くなっていないのに、一軒の家を構えた以上はお仏壇がないというわけにはいかないと考え、それどころかお仏壇のない家なんて犬小屋と一緒だとまでいうのです。このお婆ちゃんにとって仏壇とは、単にお亡くなりになったご先祖をお祀りするためだけのものではなく、ご先祖をお祀りしていない仏壇、すなわちご本尊(阿弥陀如来像)だけの仏壇にお参りすることが、人間の成長にとって欠かすことが出来ない行為として捉えられ、ご本尊に向かい礼拝することが人間であることを確保する道という認識を持っておられたのではないでしょうか。だから仏壇のない家は犬小屋と一緒だとまでおっしゃったのでしょう。
お婆ちゃんにとって仏壇とは、先祖の「死」だけに関連したものではなく、現在生きている者の「生」にも関連したものであり、生きるために必要なものだったのでしょう。