法話:願い
願い 稱名寺 釋 覚道(仲尾覚) |
昨年誕生した長男がまもなく1歳になろうとしています。生まれてくるまでは「どんな子が出てくるのだろう」とか「規則正しい生活を心掛けないと」などといろいろ気を揉んでいたのですが、10ヶ月も一緒に暮らすと毎日の忙しさばかりが先にたち、自分にちゃんと親父が務まるだろうかという心配事はどこかにいってしまったようです。生まれた当初はどんな名前にしようかと随分悩み、期日ぎりぎりに届け出たのを思い出します。親は子に願いを込めて名前をつけます。その願いとは「いい子に育ってほしい」とか「悔いのない人生をおくってほしい」といったものでありましょう。しかし最近の自分の生活を振り返ると子どもがなかなか泣き止まない、思ったように寝てくれないなど、子どもがいると思い通りにならないと感じることが多くなりました。
そんな時、ふと法語カレンダーの今月の言葉に目をやると、
仏の願いは
そのまま
私の願いは
わがまま
とありました。いつの間にか「自分の言うことを聞く都合のいい子どもに育ってほしい」と考えるようになっていたようです。自分が置かれている境遇を受け入れられず、自分が子どもに願う内容の身勝手さに気づかされます。
南無阿弥陀仏という名前は私たちにありのままを受け入れ、大切に生きることができるように促すものです。私たちの願いは自分の思い通りにしたいという欲求であり、気分次第で長続きするものではありません。しかし、仏様はそんな私たちの姿を見越して「真実に帰れ」といつまでも願われ続けているのです。そんな苦労を知るからこそ、私たちはごまかしようのない事実として自分のすがたをはっきりと知ることができたときに初めて、南無阿弥陀仏と頭が下がるのではないでしょうか。何もできないように思える子どもから気づかされることがあり、また、自分の名前に込められた願いについて改めて考えるきっかけになりました。