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法話:赤ちゃんポスト

赤ちゃんポスト
願成寺 候補衆徒

少し前になりますが、九州の病院で赤ちゃんポストが設置されたというニュースがありました。赤ちゃんポストは、いろいろな事情で育児ができない親のために病院の外壁「窓口」を設け、24時間対応で室内の専用保育器に匿名で預けられるシステムです。

賛否両論の意見が交わされ、育児に対する放棄であり反対だという意見や、育児放棄や虐待を未然に防げるのではないかなどの意見がありました。設置した病院の院長先生は、いのちの大切さに着目され、育児などについて一人で悩んでいる状況が少しでも改善されることを願われ設置されたということを聞きました。

子どもを育てる環境の変化は、今社会における大きな問題です。育児を初めてする親が、育児について相談しようとしても核家族化がすすみ、育児について教わることができない現状があったり、隣の人の顔もわからず、一人で抱え悩み苦しんで、挙げ句の果てに悩み苦しみから子どもを殺してしまうということになることもあるのでしょう。赤ちゃんポストを設置したことそのものの賛否にとどまらず、あらためてこの課題を通して、いのちとどう向き合うのか問われてくることのように思います。

私がかつて学んでいた、京都の大谷専修学院で学院長をされていた信国 淳(のぶくにあつし)先生がお話しされたテーマの中に、「いのちは誰のものか」というお話があります。釈尊の若いときの出来事をもとに語られるお話しですが、その中に、「いのちは、それを愛そう、愛そうとしている者のものであって、それを傷つけよう、傷つけようとしている者のものではない。」(渡辺愛子「仏典童話」)という言葉があります。

私たちはいのちの問題に対して、この言葉の意味を通して向きあっていくことこそが大切なことだと感じています。目の前にあるいのちに関わろうとするとき、そのいのちに対して、愛する方向の関わりなのか、傷つける方向の関わりなのか、「私たちのいのちを支配する永遠の法則」に向き合って問い尋ねて行くことの大切さをあらためて感じます。


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