法話:明日ありと思う心
明日ありと思う心
碩善寺 釋 琢也(青木琢也) |
三月二十五日、三十組の門徒会の皆さんと、桜の花が開き始めた青空のもと、京都日野法界寺、誕生院、青蓮院に研修に行かせて頂きました。まず最初に、親鸞聖人がお生まれになったとされる法界寺と、聖人生誕地にちなんで江戸時代に創建された日野誕生院に行きました。
親鸞聖人九歳、仏門に入る決心をされ、天台座主である慈鎮和尚を訪ねましたが、すでに夜だったので、「明日の朝になったら髪を剃って得度の式を授けよう」と言われました。しかし、聖人は「明日まで待てません」とおっしゃられたそうです。その時詠まれた和歌が、誕生院のわきの石碑に刻まれています。
「明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは」
まだ明日があると思っている。満開になった桜の花は、まだ明日があるように思えても、夜になって嵐が吹いたら散ってしまう・・・と言う意味だそうです。親鸞聖人は、自分の命を桜の花に喩え、明日自分の命があるかどうか分からないとおっしゃっておられます。
果たして私たちもそんな心境になった事があるでしょうか?まだ明日がある、明後日がある、何年先、何十年先があると思って生きている自分・・・先を思って生活をしている傲慢な私の姿を、今の命が大事になっていない事、今の命を忘れてしまう事を、九歳の親鸞聖人と、青空のもと輝いて咲いている桜の花に問いかけられている事に気づかされました。