法話:時間
時間
正覚寺 釋 亮月(佐合亮) |
「時間がない!」・・・普段、よく聞く言葉であり、私自身もよく言う言葉である。時間といえば、私はある都合にて毎月東京へ行くのだが、新幹線で一時間半あまりあれば着いてしまう。一分一秒の短縮のために研究し、進歩してきた技術の恩恵をありがたく受けていることである。
ところで、親鸞聖人の『正信偈』に「五劫思惟之摂受」という言葉がある。阿弥陀仏が法蔵という菩薩であった頃、「五劫」という長い時間、思索・修行して、浄土のさとりをひらかれたといった意味だそうであるが、この「五劫」というのは、一体どれくらいの時間のことをいうのであろうか。
様々な論説があるようだが、蓮如上人の『正信偈大意』によると、まず、高さ広さともに四十里もある大きな石を、三年に一度舞い降りてくる天女が羽衣で撫でて、その石が削れて無くなってしまうまでの時間を「一劫」とし、その石を五つ撫で尽くしてしまうほどの時間を「五劫」というとされる。とても私たち人間の頭では、想像にも及ばないような時間であり、これは、実際に何年かかるといったことではなく、何兆とか何億といった私たち人間がはかり得るものをはるかに超えた観念であるということを意味しているのであろう。
私たちは、一分一秒の時間に追われ、振り回され、そして流転しつつも懸命に生きている。しかし、「劫」という私たちでは思い至らない不可思議な時間の考えをもつ仏の観点からすると、一分一秒はおろか、人ひとりの一生でさえ、ほんの一夜の夢、かりそめのような出来事なのかもしれない。存覚御辞世の御詠とされる歌に伝えられている。
今ははや 一夜の夢となりにけり ゆききあまたの かりのやどやど