学ぶ・考える

法話:「御明日」

「御明日」
恵林寺 釋 信生(荒山信)
「そもそも 今日は鸞聖人の御明日として…」(御文3帖目9通)

蓮如上人の「御文」のお言葉である。この「御文」は、文明7(1476)年5月28日に書かれたと記されている。5月28日とは、つまり親鸞聖人の月命日を勤めておられたのであろう。

この「御文」の中で、ことに命日の「命」の字を「明」という字をあててお書きになっているに注目させられる。「命日」は「明日」であろうとお示しになっている。つまり「命日」とは明らかにする日、また明るくする日であると蓮如上人は教えてくださっている。

何のために人として生まれたのか、人として生まれたものの上にどういう責任があるのかを明らかにする日が「命日」であると蓮如上人はおっしゃるのだ。また それは亡き人の命日を通して私一人が大きなテーマをいただいたということでもあろう。

私自身この「御文」を読ませていただくまでは、「命日」は亡き人が迷わないように弔う日であると考えていた。そのように考えていた私に蓮如上人は「御明日」のお言葉で方向転換をうながしておられるのである。

私自身 忘れられない言葉かある。大学の4年生の頃だったか、祖父の死をきっかけに「供養」とは一体どういうことかが問題になったことがあった。「供養」という言葉は知っていたがその中身がはっきりしなかったのだ。どういうことが本当の供養なのかがはっきりしないのだ。

そんな時、ご本山で藤元正樹という先生にお会いし思いきって「供養」の意味をたずねてみたことがあった。単刀直入に「先生にとって亡き人を供養するということはどういうことですか?」とお聞きしたところ 先生の応えも単刀直入であった。「供養とは 亡き人に心配かけない 生き方を見つけることなんだ そのために仏法を聞くんだ」。続けて先生は「心配かけない生き方とは一人一人が「自立」していくことなんだよ」と教えて下った。

「自立」、それは どういう人生であれ 賜った人生をうけとめ、ひきうけ 生き、歩んでいける人生をまさしく明らかにする事である。亡き人の「御命日」から本当に大きなテーマをいただいている。


←前月の法話を読む→次月の法話を読む↑法話目次へ