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法話:「無上道を求める仏道」

「無上道を求める仏道」
恵林寺 釋研修(荒山修)

「大無量寿経」の教えを、聞き学ぶと、教えの宗要を説くところに、たとえば釈尊の誕生を表わす箇所に「我、世においてまさに無上尊となるべし」とあります。また、法蔵菩薩の因位のご修行の時、あらゆる衆生をたすけんと本願を建てようとする時のありさまを「正信偈」に「建立無上殊勝願」とあらわされてあります。その本願を説きおわられた後「三誓偈」を頌われ、その第一の誓いに「必ず無上道に至らんと」と誓願されてあります。

また、高僧和讃の曇鸞和讃を見ると「安楽佛国に生ずるは 畢竟成仏の道路にて 無上の方便なりければ 諸仏浄土をすすめけり」さらに「正像末和讃」にも「真実信心うるゆえに すなわち定聚にいりぬれば 補処の弥勒におなじくて 無上覚をさとるなり」というように、浄土真宗の教えの肝要のところに「無上尊」・「無上殊勝願」・「無上道」・「無上の方便」・「無上覚」とあらわされているのです。

いったい、「無上尊」・「無上殊勝願」・「無上道」・「無上の方便」・「無上覚」とあらわされている、その「無上」というのは、いかなることをあらわそうとする言葉でありましょうか。ちょっと考えると、「無上」という言葉は「上なき」と訓んで「これ以上のものなし」「最上」「最高」のあり方をしているものと理解してしまいそうですが、そういう育成されたもののあり方を、他と比較して、最高・最上とあらわしているのではないと思います。この「無上」という言葉は、本願念仏の道を行ずることによって道が成就されたありさまをあらわす言葉です。

そのため「上へ昇り、立身出世して、他を下に見下ろし、自己を最高の高みに昇りつめて、慢心を起こすというような方向に向かって実践をするのでない」と、厳しく、いましめている言葉なのです。そこには、「無上」は他を排して、自己を最高位に昇ることを否定し、自と他を比較したり、格差をつけたりせず、自他平等に正覚を成就したことあらわす言葉です。

「三誓偈」に「説法師子吼」ということが説かれてありますが、師が弟子に法を説くということをあらわすのではなく、師が弟子に法を説くことによって、弟子が師に説かれた法によって、見失っていた自己の本来に目覚めることです。師の説法を聞いて、弟子が法にうなずく。弟子が法にうなずくことによって、そのとき、同時に師が成就することが成り立ってくるのです。法を説くことによって師が師として成就するのでなく、師の説いた法を弟子が本当にうなずくことによって師が成就するのです。弟子が師を成就させるのです。師が弟子に教えて助けるのではない。師の説いた教えを弟子が、本当にうなずく、自分を見失なっていた弟子が本来の自分に気が付いたとき師が師として成就してくるのです。そのとき師と弟子は同時に自己を成就する。師が上で弟子が下ではないのです。まさに平等正覚です。そのことを無上正覚と言うのです。


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