法話:分別を超えて
分別を超えて 聖徳寺 釋 哲顕(小笠原哲) |
子どもが幼稚園に入園する。子どもが生まれてまだまだと思っていたのにもうそんな時期が来たのかと思うとなにか感慨深い。入園式の説明会にて、
親御さんはお子様が幼稚園に入園するにあたり期待とともに大変心配もしていらっしゃることでしょう。しかしそれほど心配しなくても大丈夫ですよ・・・。と園長先生のお話を聞かせていただいていると、心配なことばかり考えていた自分に気づく。「ああ、私もあたりまえながら子どもの時期があり、幼稚園に入園するときは、わたしの両親も同じように思い考え心配していたのかな」と思うと照れくさく、いろいろ考えてしまう。
私たちは、同じようなことを繰り返し経験し、次の世代へといろいろなことを受け継ぎ生きている。しかし、いろいろな人達がいて時代が変わっても、親から子への思いは変わらないのでないだろうか。
部屋の壁に落書きしても、お茶碗を落として割ってしまっても、絨毯にミルクをこぼしても、子どもは良い悪いと考えて物事を起こすわけではない。親であればそう思い自然と暖かい目で子どもを見守り手を差し伸べ抱き上げる。そんな親の思いとは分別を超えた愛情のこもった思いだろう。
私たちは分別しながら生きているし、年をとればなおささいな分別に振り回される。阿弥陀さんはその分別に振り回されている私を救わずにおられない。親が子を思う気持ちと同じように。親から子への無償の思いと同じように、阿弥陀さんが私たちに分別を超えて願いをかけて見ていてくださると思うと、本当にありがたいですね。