親鸞聖人は『愚禿鈔』という書物の中で、「自身を深信する」(我が身を深く信ずる)と示しています。エゴの心にまとわりつかれ、迷いに埋没して生きるより他ない愚かな我が身であると深く信ぜよと示しています。
また、釈尊は、人間の心の底には、貪(むさぼり)瞋(いかり)愚(無明)という3つの煩悩があると教えており、愚(無明―灯りが見えない)が根本をなして、むさぼりといかりが生ずるとしています。
愚かを知らないとは、我が身を深く信ぜようとしないこと、自ら灯りを見ようとしないことといえましょう。その点、人間以外の生物は、我が身を深く信じていると思うことがあります。
子供の頃の夏の夜の事です。現在のように、冷房が発達していなかったので、どの家も窓を開け放しにしておりました。我が家も同様でした。すると、1匹の黄金虫が灯りを求めて飛び込んできました。どうするものかと見ていると、電灯に反射して光っていた父親の前頭部に止まりました。しばらく休んだ後、再び灯りを求めて窓外へ飛んでいきました。黄金虫にとっての灯りとは、やはり、窓外にあると信ぜられたのです。
愚かものとは、灯りを求めながらも、灯りを見ようとしない我が身自身のことをさしているのではないか、と思います。