親鸞聖人は、一念多念文意という書物の中で
「きくというは、信心をあらわす御みのりなり」
とおっしゃっています。ただ漫然と聞くのではなく、本願のいわれを聞くこと、念仏 のこころを聞くこと、とおっしゃっています。
また蓮如上人は、御一代記聞書の中で
「仏法に厭足なければ、法の不思議を聞く」
とおっしゃっています。自分の関心事や、今すぐにでも知りたいことに対しては、こ れで充分と飽きることがない、人に問うなり調べるなりしてして、もっともっと知り たいと思うものだ、とおっしゃっています。
自分の関心事と言われて、思い当たることがあります。冬になり風の強い日が続く
と、外出した際に少なくなった私の頭髪が風と共に(抜け)去ってしまわぬかと心配
になり、何とか対策を講じようと数年前より周囲から、
「これは効くよ。」
と、評判の育毛剤を使用しておりましたが、効果は表れませんでした。友人との雑談
でたまたま話しましたところ、
「舶来のいいの(育毛剤)があるよ。」
と言われました。普段は聞き流す雑談が、
「それで、それで、どんなの?」
と問い続け、喜んでその結果、分けてもらい現在も使い続けることになりました。自
分の関心事(頭髪の育毛)には飽きることはないわけです。
聞信の「聞」とは聞く、「信」とはまことの己の姿を表します。飽きることなく己 の姿を聞いていく、問い続けていくことか゜、自らの姿を明らかにしていくことでは なかろうかと思います。