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外に悪人がいるのではなく、悪人と決める心が私にある

歎異抄の第二章に

「いずれの行もおよびたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」

とあります。

自らの罪業は、信心の智慧によって見出されるもの、地獄一定の自覚とはどこまでも堕ち続けても大丈夫という世界に出遇うこと、逆に言えば私の罪業には底がないといえましょう。

20数年前に亡くなった私の祖母は、テレビの時代劇を観る事が大好きでした。時代劇の話の内容は、勧善懲悪、善玉が悪人を懲らしめて終わるのが殆どです。

実は祖母は耳が遠く、テレビの音声は全くといっていいほど聞こえませんでしたので、観ていても話の内容は解からないと思っていたのですが、悪役を演じる俳優さんが画面に出てくるだけで「あいつは悪い奴だで。どうしようもない奴だなあ。」と、横で観ていた私に解説してくれました。聞こえなくても、毎回観ることにより話の筋から役柄まで解かってしまうのでした。

知らず知らずのうちに、悪人と決めていく罪業を私は背負っているのだな、と思います。

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