掲示伝道バックナンバー 晃照寺ホームページへ 第30組トップページへ
人のふり見て、わがふりに気づく

「仏様に話し掛けてもいいですかねぇ。」
と先日、ご主人を亡くされたお宅に伺った際、奥さんから尋ねられました。

「仏様(お内仏)は、お願いをするものではない。もっとしっかりしなさいと周囲の者は言いますが、ついつい悲しくなって私を守って下さいとお願い事ばかりになってしまいます。」
と言われました。私は
「それでいいですよ。」
と応えました。お内仏に向かうということは我が身を振り返え気づこうとする事、悲しみで涙が出るということは、我が身に置き換えられるからといえますまいか。

人間の悲しみを照らす阿弥陀如来の悲心は、殊に「大悲」と呼ばれます。「大」とはそのお心が一切に及び、一切を包むところの普遍的なものであることを示します。親鸞聖人は「教行信証」の「教の巻」の中で、真実の教を
『大無量寿経』
と著されています。

それとともに「大」は、その絶対性をも表します。大乗仏教というときの「大」は、一切を残らず乗せて彼岸に渡す唯一の乗り物であると同時に、いかなる暴風にも揺るがない乗り物をも意味します。

しかもまた「大」は、真実をも意味します。

悲しむべきことを本当に悲しむもの、それは如来の悲しみであると受け止めたとこ ろに亡き人から見つめられている我が身に気づくかもしれません。

掲示伝道バックナンバー 晃照寺ホームページへ 第30組トップページへ