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不足不満 それは不信による
親鸞聖人の晩年に著された正像末和讃に
弥陀の本願信ずべし 本願信ずる人はみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり
とあります。
また教行信証、歎異抄にはそれぞれ
「竊に以んみれば」 「弥陀の誓願不思議にまいらせて」
とあります。
教えを聞いて信頼して、実行して悟りや救いを得る。一所懸命やると救われるとするのを「自力の信」とされています。
それに対して教行至り届いて信証を生ず、その信に救いと悟りがこもっているような信、それを他力の信といいます。 如来の心が私の心となり、如来の働きが私の働きとなって救われるのです。弥陀の本願を信ずるとは、私が本願を信ずるのではない。疑わないのではない。如来の本願が私に届いて目醒めが与えられることを信といい、「弥陀の本願信ずべし」と教えられるのです。

今年も若くして亡くなった友人の命日のお参りに出向きました。忘れ形見である息子は一回り大きくなっていました。調子に乗ってふざけて騒いでおり、周囲にいた母親や祖母が窘めておりましたが聞く耳持たぬ様子でした。 程なくして私が、
「さぁ、お参りさせてもらいましょう。」
とお内佛の前に座りますと、それまでふざけていた息子が私の横に座り
「僕が、鐘(お鈴)を鳴らします。」
と言います。ふざけていい加減に鳴らすのかなと思いつつ正信偈を唱和する前に2度、終わりの「高僧説」の前に1度、廻向の「往生安楽国」の間で3度と、それまでの態度とは一変して神妙な顔で唱和打鐘しておりました。その姿を見て私は胸が熱くなりました。息子本人は喜ばせようとしたのではなく、自分がしたいからしたまでのことでしょうが。
信とはまこと、お念仏に出遭うこと。亡き友人から、息子と共にお念仏に出遭う場をいただきました。

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