弥陀の本願信ずべし 本願信ずる人はみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなりとあります。
「竊に以んみれば」 「弥陀の誓願不思議にまいらせて」とあります。
今年も若くして亡くなった友人の命日のお参りに出向きました。忘れ形見である息子は一回り大きくなっていました。調子に乗ってふざけて騒いでおり、周囲にいた母親や祖母が窘めておりましたが聞く耳持たぬ様子でした。
程なくして私が、
「さぁ、お参りさせてもらいましょう。」
とお内佛の前に座りますと、それまでふざけていた息子が私の横に座り
「僕が、鐘(お鈴)を鳴らします。」
と言います。ふざけていい加減に鳴らすのかなと思いつつ正信偈を唱和する前に2度、終わりの「高僧説」の前に1度、廻向の「往生安楽国」の間で3度と、それまでの態度とは一変して神妙な顔で唱和打鐘しておりました。その姿を見て私は胸が熱くなりました。息子本人は喜ばせようとしたのではなく、自分がしたいからしたまでのことでしょうが。
信とはまこと、お念仏に出遭うこと。亡き友人から、息子と共にお念仏に出遭う場をいただきました。