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底知れぬ如来の大悲心の中に 自分の罪悪を感ずる

法然上人は、比叡山の黒谷で五千巻あまりともいわれるすべての経典を読む中で、唐の善導大師が著した「観無量寿経疏」(観経疏)の言葉にめぐり あったとされています。

「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近を問わず、念念に捨てざるをば、これを "正定の業" と名づく、かの 仏願に順ずるがゆえに」(一心に専ら阿弥陀仏の名を、日常生活においていつでもとなえることは、すべての人がともにたすけあって生きる ことのできる道を開くのである。なぜならば、念仏するということは、阿弥陀仏の大悲の心ー本願にかなう行だからである。)
この言葉によって阿弥陀仏の大悲の心ー本願ーすべてのいのちあるものを見捨てない仏の心によって選び取られた念仏こそ、
「すべての人が、ともにたすけあって生きることのできる道」
を開くということに気づかされます。
しかし、自分一人が可愛い、を離れることができない私には、ともにたすけあうといっても、結局は自分の考えに合う限りになってしまいます。
こんな自分自身の姿を教えられ、自分を顧みる心が起きた時、もともとはじめから、ともにたすけあえる世界があることに気づかされます。

流産した子の命日にお勤めさせていただくご縁がありました。無事生まれ育っていれば、今頃は家庭を築いていたであろうと言われました。 さぞ、お辛かったでしょうね、の言葉では足らないように思いました。無事にいのちが生まれ育つことの大変さを知らされたご縁でした。

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