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今日 自分あるゆえんは 一朝一夕のものではない

「大無量寿経」の阿弥陀さまは、繰り返し何を誓われていたでしょうか。

「たとい我、仏を得に、国の中の人天、寿終わりての後、また三悪道に更らば、正覚をとらじ」(聖典15)
私の国に地獄、餓鬼、畜生あれば、私は悟りを開かなくていいとされています。

先回も記した幼子の葬儀には、参列者のほぼ全員が涙したのでした。悲しみとともに生きる我が身を、亡くなった幼い仏は知らせてくれているのかも しれません。今日の自分があるのは、仏様が向こうから私を見守っているからでありましょう。悲しみの涙が出るのも、口をついて出る念仏も(最近は 少なくなったようですが)仏様から差し向けられたものでありましょう。

先だって、葬儀は必要か不要かの模擬論戦に参加させていただくご縁がありました。
精神的、経済的負担を強いることの大きい現状の葬儀は、今後も続けていくべきなのかどうか。葬儀ではなく、身内や親しかった者たちを集めた 「お別れ会」とした方が現状には相応しいのではなかろうか。
負担を軽くしたいというのは「私ー自分」の事情からでしかなく、そういう自分は一朝一夕でなく、ずっと仏様から見守られているものならば、 葬儀を無くしてしまうのはどうなのか。
容易に答えは出ないかもしれませんが、長い時間、仏様に見守られつづけているのは紛れも無い自分なのです。

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