事実を見ることが歩みの一番の根本だと説いているのが仏教でありましょう。老いを見つめたくないから、若さを羨ましいと思います。
また、「歎異抄」にありますように
「久遠劫よりいままで流転る苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、 まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ」(聖典630)苦悩の世界なら一刻も早く捨てたいと思うはずですが、苦悩の旧里だから捨てられない、自分がこの人生で耐えてきた苦しみ悲しみにおいて、我一人の こととして握り締めていたいと思うから不思議です。誰にこの苦しみがわかるものかと思うのです。
「インターネットで見つけたものですが、遺骨の一部をケースに入れて首から提げて、いつも身につけていたいのです。お骨は全部どこかに納めなければいけ
ないと云われますが、どうなのでしょう。」
と訊かれました。
私ども僧分の願いとしては、亡き人をご縁として仏に出遭って欲しいのです。手段はどうであれ、仏に出遭うご縁になれればと、お応えしま
した。
自分の悲しみを通して人の悲しみを知り、その人の悲しみを我が身に受け止めていかれるご縁がいただければと思います。