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人間の回復、それは自然を大切にし合うことから始まる

今年は年明け早々に葬儀が続きました。人はいつかは死んでいく事に出遭うご縁を、続いていただきました。人は死んだら仏になるのか、否ただの 遺骸になるだけなのか。仏になるにはどうすればいいのか、なるための修養ー「行」によって仏の境地ー「証」に至るとされます。

ただ、それは難儀なことであります。「仏説観無量寿経」に

「もし衆生ありてかの国に生まれんと願ずれば、三種の心を発してすなわち往生す。何等をか三つとする。一つには 至誠心二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具すれば、必ずかの国に生ず。」(聖典112)
仏になる要素は阿弥陀仏が備えて行じて下さっており、蓮如上人が著された御文にも
「南無というは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏というはその行なり」(聖典838)
とされています。
自分の心を研ぎ澄ましたり、考え詰めていくのはいいのだけれども、そういつもうまくいくとは限らない。阿弥陀の救いを信ずればよい、信ぜられる心も また阿弥陀様の元にあるといえましょう。

「葬儀といっても、昔は隣近所が総出でお手伝いしたものだが、今じゃ葬儀屋が一切取り仕切って、私らはただ座しているだけ。これで゛ いいのかしらん。葬儀屋の商売に乗せられているんじゃなかろうか。」
中陰にお参りに伺った先で言われました。
隣近所で執り行ったのが私であり、葬儀屋さん任せにしているのもまた私であります。
他を批判し、嘆く迷いの身であると知らされました。

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