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ことばで迷い、ことばで傷つき、ことばで救われる

金子大栄師の著 「真宗入門 教行信証のこころ」 を読んでおりましたら、以下の様なことが書かれてありました。

「人生の目的は幸福を目指すのでは曖昧です。人生の意味をたずねようとすれば、いかに死すべきかをはっきりさせればよいの ではないでしょうか。心置きなく死んでいけるところがあれば、それが本当の生の意義なのではないでしょうか。」
つい先立っても、同世代のお父様が亡くなられました。どうやってお悔やみのことばをかけたものか迷い、失礼な事を言ってはならない、僧侶であるので 何語とか遺族の方々が救われることばをかけるべきではと悩むところです。

心置きなく死んでいけるところー現在、人生五十年ではなく八十年、いやそれよりもっと上かもしれません。生と死の間に老と病の問題が入り込み、社会 がうまく対処できなくなっています。老と病が大手を振って死が遠ざけられ、なかなか心置きなく死ねなくなっています。

こういう私だからこそ、阿弥陀様は多くの願いを立てられたのではなかったか。

「弥陀仏の本願を億念すれば、自然に即の時、必定に入る。ただよく、常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし、といえり」(聖典205)
救われるのは私、救うのは仏の力。発することばは、願いをかけられた私が仏によって発せられ、迷う私を照らし出しています。

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