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実がいると稲はうつむく 人は身が重くなるほど、のし上がるなり

歎異抄第18条に

「善導の、自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して出離の縁あることなき身としれ (散善義) という金言に、すこしもたがわせおわしまず。されば、かたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが、身の罪悪のふかきほどをもしらず 、如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよえるを、おもいしらせんがためにてそうらいけり。」(聖典640)
(私は)善悪を知っていると高上がりしていることを、迷いというのでありましょう。
善いことをすれば善い結果が、悪いことをすれば悪い結果が出るものと考えがちですが、そもそも善悪とは自分にとっての都合の良し悪しでしかない 、自分の都合に囚われているものと思いますが、如何なものでしょう。

名古屋市の火葬場が、来年あたりから友引といった日柄に関係なく開場されるとの事。ということは、日柄に関係なく葬儀が行われることになります。
友引に葬儀はしないもの、というのは単なる語呂合わせの因習であると高上がりに御門徒に話しながら、骨休みできる日が減ってしまうと嘆く迷いの姿 の私自身がおりました。

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