人間に生まれた限り、いかなる時代や状況であれ、社会情勢であれ、生きて学ばなければならず、自分は誰にも替わることのできないものなのだ と気づかされます。
親鸞聖人は教行信証の中で
「慶ばしいかな、心を弘誓の仏に樹て、念を難思の法海に流す。」(聖典400)と慶ばれました。
御門徒に
「お経の意味が解らない。仏壇も開ける気にならない。だから、仏には遇えないのではないか。」
と言われました。
私が決定して、私が学び、私が修行して点検して出遇うものと思っていた仏が、仏の方から私の所へ願いをかけに来て下さる。
仏から私が尊敬され認められ、生きていくことを「尊いよ」と言われています。
仏壇(お内仏)が開けられないので、私から出遇うのは辛いのだが、仏は構わず遇いに来て下さるのです。
安心して、お経の意味が解らなければ、調べるなり尋ねるなりすれば良い、と諭して下さっているのかもしれません。