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底知れぬ如来の大慈悲信の中に、自分の罪悪を感じる

歎異抄第13章に

「なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、 一人にてもかないぬべき業縁なによりて、害ざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人 をころすこともあるべし。」(聖典633)
とあります。
誰であっても自分の思うとおり行動できるのであったなら、往生のために千人殺せといわれたら殺すでしょう。でも一人でも殺せる宿業の因縁がないので 殺せない。自分の心が立派だからではない、逆に殺そうと思わなくても百人千人殺してしまうこともあるではなかろうか。
私の行動は私自身で決めることができない。自分で自分を救うことはできない。それだからこそ如来の救いが必要となりましょう。

心の重心が下がると安心して迷え、本当に泣き笑えるようになる、と先だって組の講座で聞きました。
自らの自ら行動を決めているようでいて実は、決められない。そして縁によっていくらでも罪を作るのが私。
罪を作るまい、と気持ちを奮い立たせるよりも、いつでも罪を作るのは私と頷くことが心の重心ー落ち着きとなろうかと思います。

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