歎異抄に
「罪悪深重煩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき 善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々」(聖典626)自分の思いを超えたのが弥陀の本願、非力な自分を知らしめてくださるのが、弥陀本願といえましょう。
来年(2016年)が、名古屋教区名古屋別院宗祖750回御遠忌の法要や式典等の行事が行われる予定です。寺院に割り当てられた金額の他に、御門徒
からも懇志を募るべく、毎月のお参りに依頼して廻りました。
懇志は寄附であり、いくらいくら下さいと要求することはなかったのですが、思いの外多くの額が集まりました。
このご時世で、懇志を募ることに心苦しさを感じていただけに、驚きました。
お付き合いで仕方なくか、住職の顔を立ててか、事由は色々ありましょう。
集まらないだろうな、拒否されるだろうな、非難されたらどうしょうと思ったのは、私の思い上がり、思い上がった姿が照らされました。
見えるものだけを当てにする我が身の姿が知らされました。