善導大師が著した「観経疏 散善義」に
「出離の縁、あることなし 自身は現に」とあります。自身は「われら」であり、「われ」の中身は「われら」となるのです。「われ」の中身は「われら」であり、「われら」が「罪悪深重の 凡夫」になるのです。
環境をつくるのも「われら」で、環境は業縁となり業感となります。
「われら」の業は周囲に作られたものであり、周囲をつくるものであります。
度重なるテロ事件や人身を殺める事件は、けっして他人事ではない罪を犯さざるを得ない人間「われ」「われら」の姿を表し、 「われ」「われら」に知らしめて下さっているのではないかと思います。