歎異抄に
「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに とおおせそうらいき」(聖典630)とあります。
生きている事実があまりに当たり前のために、誰もわざわざそのことに目を向けませんが。奥さんも子供も主人も毎日毎日成長、新しくなっている
、その姿が見えるかということです。
いつも「わしの女房」「うちの主人」という既成概念が入って生活全体がどんよりしてしまわないか。
仏教の目的は「転迷開悟」−迷いを転じて悟りを開くこと。
「智なくば感なくばすなわち止む、いやしくも智と感とを具備してかくの如きは迷倒ならずとするを得んや」
不思議とは発見することとでも言えましょうか。
当たり前のことに目を向けないことは顛倒−仏道に反していましょう。
お酒を勧められて
「もう十分いただききました。酔いました。」
と言うときは大概は酔ってはいません。逆に千鳥足になっているのに
「酔ってませんよー」と言うときは‥‥。
そんな迷いの姿か゛転ぜられるのではないかと思います。